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  5. LEDライト スイッチ付 スリム蛍光管形 長さ57cm 昼光色 1200ルーメン 消費電力9W 配線工事不要 AC電源コード・連結コード付属 1本入り
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LEDライト スイッチ付 スリム蛍光管形 長さ57cm 昼光色 1200ルーメン 消費電力9W 配線工事不要 AC電源コード・連結コード付属 1本入り

294円

LEDライト スイッチ付 スリム蛍光管形 長さ57cm 昼光色 1200ルーメン 消費電力9W 配線工事不要 AC電源コード・連結コード付属 1本入り

※この商品はアウトレット品です。
※本体の微細なキズ・汚れ、個装箱の汚れ・別の箱を利用といった理由になります。

ACコンセントから給電できる直管蛍光灯タイプのLEDライトで本体に電源ON-OFFスイッチが付いています。難しい電気工事が不要で簡単に取付けでき、様々な用途に利用できます。

管径T5のスリムタイプ。全光束1200ルーメン、さわやかな昼光色の光が乳白色のポリカーボネート・カバーを通して均一に広がります。
電源はAC100-200V対応、消費電力9W。両端に電源コードを差し込むソケットがあり、どちらからでも給電できます。

付属の連結用コードや直結用カプラを使って複数本を直列や並列に連結することができます。
※最大連結数は12本まで。

本体部は軽量で放熱性に優れたアルミ製。
外形寸法:長さ565mm x 幅21mm x 高さ34mm、本体重量:110g。
付属品:ACプラグ付き電源コード(2m)、連結用電源コード(約28cm)、ダイレクト連結用カプラ、取付金具(2ヶ)、取付ネジ(2本)、電極キャップ(1個)、取扱説明書、2年保証付。









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LEDライト スイッチ付 スリム蛍光管形 長さ57cm 昼光色 1200ルーメン 消費電力9W 配線工事不要 AC電源コード・連結コード付属 1本入り

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■■■はじめに■■■当方の購入時における事実に基づき、あくまでも個人的な感想を付加して投稿しました。広告に多数記載がある特長(特徴ではなく長所)も主な性能(効果やその限界)は目に見えず、メーカーのデータを信じるしかないため、あえて書かないが、購入を検討する際は広告を鵜呑みにせず、「性能」と「機能」との切っても切れない関係についてじっくり考えてみる必要があることを痛感させられた。購入前に現物を確認できないのも困ったことで、導入済の店舗などで遠慮しながら現物を見せてもらうしかないのだが、詳細まで知ることはできない。「性能」と「機能」は全く別のことだが、両者は車の両輪と同様、バランスがとても重要であり、如何に性能が良くても使い勝手が悪ければ折角高額で購入したのにガッカリするばかり。当方の期待しすぎなのだろうか? フラッグシップモデルとは誠に恐れ入った!シリコンバレーで誕生した世界に誇る最強の性能、と宣伝するならば使う意欲を削がれないよう「価格と性能」に見合うだけの「機能(使い勝手)」にすべく、メーカーの都合ではなくユーザー目線で使い易さを徹底的に追求?拡充し、技術者としてのこだわり?気配り?意気込みを存分に発揮して製品にしっかりと反映させてほしいものだ。米国と日本とで文化の違いがあるにせよ、実際使ってみなければわからないことがこれほどあったとは! 万能選手とは思えない現状については文末で。■■■現状のままでは使いづらい理由(順不同)■■■▲「電源オフの直前まで使っていた状態(モード)」を記憶する「ラストメモリー機能」がなく、再起動させたとき及びスリープモードから復帰させたときは必ず最小風量で立ち上がるため、都度元の値に戻すのが煩わしい。蛇足だが他社製の一部サーキュレーター(米国の著名なメーカー)にはラストメモリー機能が備わっており、前回の電源オフ直前の値で運転を再開する。▲本機は30分で約42畳の部屋をクリーンにする素晴らしい性能だそうだが、これを実現するには能力を全開(このとき風量?騒音ともに最大)せねばならないのに、広告を見ただけでは「常時無条件で静かに最大能力を発揮する」かのような間違った印象を持ってしまう。実際購入し、取扱説明書を見てガッカリ。その上、最大能力発揮時は片時もそばにいられないほど音がうるさいため、いつもは やむを得ず最大風量の一段階下のモードL3で使っているのが現状だが、「ハイパワーなのに静か」とはこれ如何に?■蛇足だが、製品の運転音について、簡易的ながらスマホアプリの騒音計を用い、製品から1mの距離でスマホのマイクを製品の前面(垂直面)に向けて測定したところ、下記の結果が得られ、取説42ページの右下に記載されている値とほぼ一致した。?最大能力発揮時(モードL4)における約50dBの運転音は静寂な室内ではとてつもなく大きく感じられる。やむを得ず通常使用しているモード(L3)では約40dBであり、実際使用してみて「10dBの開きが如何に大きいか」も再認識させられた。▲付属のリモコンは「オマケ程度」との認識なのか !? 最大能力発揮時は前記のとおり音がうるさいため、本機から離れると、わずかな距離と言えどもリモコンが機能しなくなる。「きちんと検証したのか !? それとも、そもそもこんな仕様なのか?」と思えるほどのリモコンには全く利用価値を見い出せず、本機を直接操作するほうがよっぽど手っ取り早く現実的。これほどの至近距離でしか使い物にならないリモコンはこれまで見たことがなく、テレビやエアコンなど国内メーカーの普及型家電品でさえ数mは到達する。京間40畳の部屋の隅に置いた本機を、対角の隅からリモコンで操作する場合を想定すると、本機とリモコンとの距離(=部屋の対角線の長さ)は、畳の配置にもよるが平均約10mになる。念のためリモコンの到達距離をメーカーに確認したところ、今回の事例を裏付ける驚きの結果(たった 3m !)を得たため個体不良とは考えにくく、リモコン送信機の発光部も装置本体の受光部も、赤外光を効率よく送り受けするための物理的な構造(光学素子の取付位置やハウジングなどの作り込み)について多分に改善の余地がある、と推測される。翻って、本来機能の一部であり大々的に宣伝されている「空気の汚れ具合を感知するセンサー」が赤外線方式である、と仮定すれば、リモコンに使う赤外線の扱いに関してはお粗末ではないだろうか?《蛇足だが、二酸化炭素濃度測定器は赤外線を使用するNDIR方式が主流であり、日本では国もこの方式の製品の使用を推奨している旨がテレビでも放送されたことから類推した。》■付属リモコン(送信機)の機能後退について。初期モデルのもの(ブラック)は添付画像のとおり操作時にはコマンド発信中であることが目でわかるよう左上の赤ランプが点滅していたのに現行モデルのもの(シルバー)では省略されている。初期モデルも現行モデルも価格が変わってないことからすればユーザーの利便性よりもコスト優先なのだろうか?▲風量を調節する際、リモコンには+/ー両方のボタンがあるのに、本体では風量調節と兼用になっている電源ボタンを「短押し(長押しすると電源が切れる)」して+方向にしか調節できないため、いろいろと面倒な場面に遭遇する。例えば「本体の電源ボタンでモードL3に設定して使用中」の時は、たった1つマイナス方向のL2にするにも電源ボタンを5回も押さねばならない。ところが「リモコンでモードL3に設定して使用中」の時に 1つマイナス方向のL2にするには、今度は電源ボタンを6回も押さねばならず、単に煩わしいだけではなく、紛らわしさまで加わる。このように、使い込むほどに不可解な現象が出現し、芸術作品の「不可能図形」を見ているような気分になる。ただ単にボタンの数を減らしただけで、はたして「シンプル操作」と言えるのだろうか?数を減らしたボタンには必然的に本来とは別の機能まで追加的に割り付け(抱き合わせ)ざるを得なくなった結果、「シンプル操作=直感的」とは真逆の「かえって操作が煩雑になる」ばかりか、リモコンと本体とで電源ボタンの挙動が異なっていて非常に紛らわしく、意図せず誤操作してしまう。■■更に次のことがらが判明。「本体の電源ボタンを押す都度モードが遷移する順序(基本の挙動パターン)」に「リモコン操作」が割り込むと、どのモードのときに割り込むかにより、それぞれ異なった挙動をすることがわかったが、いずれも既知の事実や既成概念からはとても類推できない想定外のことばかりで、その一部を列挙する。●本体の電源ボタンのみの操作による基本の挙動パターン=電源オン又は再起動でオート付のL1→オート付でないL1→L2→L3→L4→スリープ→オート付のL1→以後同じことの繰り返し(これを既知の事実として以下、話を進めます)。●オート付のL1→リモコンでスリープ→本体の電源ボタンを3回押すも途中変化なく(L1~L3はなぜか飛び抜かされて) 4回目でいきなりL4。●オート付でないL1→リモコンでスリープ→本体の電源ボタンを2回押すも途中変化なく(L2?L3はなぜか飛び抜かされて) 3回目でいきなりL4。●L2→リモコンでスリープ→本体の電源ボタンを1回押すも変化なく(L3はなぜか飛び抜かされて) 2回目でL4。●L3→リモコンでスリープ→本体の電源ボタンを1回押すとL4。●L4→リモコンでスリープ→本体の電源ボタンを1回押すとオート付のL1→もう1回押すとスリープ→次に3回押すも途中変化なく(L1~L3はなぜか飛び抜かされて)4回目でいきなりL4。■こうなると全ての組み合わせで生じるおびただしい数の予測?類推不可能な挙動パターンを把握するのは容易ではない。これに加えて、本体の電源ボタンでマイナス方向に調節する操作までが絡んでくると話は更に複雑怪奇なものとなり、出口のない迷路に入り込んだような感覚に囚われて折角の探究心も折れてしまう。▲風量ボタンを押したときの反応が鈍い(遅い)。モーターの慣性を考慮しても、まるでネット経由で操作してるときに避けられないタイムラグであるかのように感じてしまう。この傾向は、マイナスよりも+ボタンを押したときのほうがより顕著であり、モードL3からL4に移行する際は実に約5秒もかかってしまう。ステッピングモーターの特徴(特長ではない)のひとつなのだろうか? 本機の仕様であるならば取扱説明書にその旨か注意事項を記載すれば「早くも故障したのか!?」などと余計な心配をせずに済むのに!▲操作時は「ピッ」という確認音だけではなく視覚でもわかるよう「前面で空気の状態を色で表示するランプ」が点滅すると便利(点滅させるランプを別に設けても構わない)。これが実現すれば、次に述べる「スリープモード時は操作音が出ないよう改良」しても困らない。▲前記確認音は音が大きく耳障りで、しかも停止(無効化)できないため停止または音量調節できるようにしてほしい。また、スリープモードについては「スリープモードに入る操作をするとき」「スリープモード中に各種ボタンを操作するとき」は無条件で音が出ないようにしなければ折角のスリープモードも台無し。▲スリープモード時に於いても空気の状態を知りたいのに、一切の表示が消えてしまい、運転音も殆ど聞こえなくなることと相まって、電源オフとの区別がつかず紛らわしい。空気の状態表示は本機の目玉的な機能であり、スリープモード時も機能してもらわなければ折角の機能も台無しで、購入した意味が無い。スリープモードであることがわかり、しかも空気の状態もわかるよう、数字表示?色別表示ともに照度を落としてでも、とにかく点灯させることで不都合の解消を提案したい。ただしこの場合、次に述べる「ちらつく点灯方式」の見づらさが更に浮き彫りになる。▲本体前面の「空気の汚れ具合の数字表示」および上面の「電源その他」の各種ランプは、実は目にも止まらぬ速さで点滅を繰り返しながら点灯していて節電効果はあるが、この点灯方式(ダイナミックドライブ)に起因する「ちらつき」がある(仕様であり、故障ではない)。コロナ禍で在宅時間が長くなった今どき、夜間はこの「ちらつき」が余計気になるので、ちらつかない点灯方式(スタティックドライブ)にしてほしいものだ。▲チャイルドロックの本来の目的を考えれば「ロック中は本体側での全ての操作が無効で、リモコンからは通常どおり全ての操作が可能」であるのが一般的だと思うのだが本機はそうなっておらず、「本体の電源ボタンを長押しすれば電源オフのみだが可能であり、リモコンからは一部の機能しか操作できない」のが何とも不可解。米国では基本的な考えが違うとしても、設計の意図が全く見えてこず、メーカーに尋ねても「本件についてはこれ以上お答え致しかねます」などとお茶を濁すばかりで、自身が販売している機器のことなのに、答えたくないのか知識がないのか、その他、特許情報でもないのに答えられない事情があるのか? 埒が明かない不毛なやり取りを繰り返して不愉快な思いはしたくないが、疑問が解消されないまま使い続けねばならないのは残念なことだ。▲電源ケーブルが本体裏面に直付けされているため、移動させる都度巻き取るのが煩わしい。デスクトップパソコンの裏面のように本体側でケーブルを外せる構造にすれば便利であり、更にはケーブル不良になってもユーザーで交換できるメリットがある。■■■その他■■■▲▲「安全は全てに優先されるべき」なのは何も工事現場に限ったことではない。製品の梱包に配慮が欠けていて事後の対応もイマイチ。今回購入した製品は一部の同梱品(本体の構成品でかなりの重量。使用開始準備中に、これが集塵フィルタであることがわかったが、後述のとおり海外モデルのものよりもずっと重い。)の梱包がまずかったため開梱時に落下しかかり危うくケガをするところだったが、メーカーに早速メールで状況を詳しく説明したにもかかわらず、最初の返事には、先ずあるべきお詫びの言葉もなかったため、電話するとそこで初めて状況を把握した模様。メールをきちんと読んで状況を理解しようとしないのか、それほどまでに多忙なのか、或いは、わざわざ催促して確認しなければ必要な情報が担当部署まで伝わらないのか!? また、電話の都度担当者が代わるため事情を最初から説明せねばならないなど難儀し、肝心な情報が社内で何も共有できてないように見受けられる(窓口対応の詳細は後述する)。重量物は簡単に転げ出たり滑り落ちないよう厳重に梱包するとともに「重量物 落下注意!」などと赤色太字でハッキリわかるよう表示して注意を喚起するなど、事故防止には万全を期すべきなのに、箱を閉じる直前の状態をきちんと確認しないのだろうか? それとも今回たまたま当方の運が悪かっただけなのか? いずれにせよ厳格な出荷検査を切に望む。★★安全に関する重要なことをもう1点★★空気清浄機の基本的な知識があれば、このクラスの製品はメーカーを問わず内部に高電圧を発生する部位があるのはもはや常識だが、本機の海外モデルの裏ブタには添付画像のとおり「高電圧注意」を示すラベルがきちんと貼られているのに国内モデルにはそれがなく、取扱説明書にも記載がない。単に「感電の危険があるので内部には触れないように」との表現だけでは高電圧特有の危険性を何も認識できず、現実的でない。ラベルの英文をよく見ると「(チリやホコリを集めるための)高電圧が、集まりすぎたホコリに作用して火災になるのを防ぐため頻繁に点検し、定期的にホコリを取り除く必要がある」と解釈できるが、これほど重要な内容ならばおのずと国内モデルにも当然表示されるべき。しかしながら高電圧が直接人体に及ぼす危険性については言及されていない。★付け加えるならば、手入れの際、集塵フィルタを取り外したスペースを掃除するために差し入れた手が、まるで異次元空間にでも引きずり込まれたかのように、身の毛もよだつほどの強烈な残留静電気を感じ、高電圧発生部を有する複数他社の空気清浄機には見られない、本機特有の現象には驚いた。電源オフ直後もしばらくは、運転中の高電圧により発生した大量の静電気が、集塵フィルタを包み込むように取り囲んでいる灰色でコの字型のゴム質の部材に帯電?蓄積していることが推測できる。冬季にドアノブに手をかけると静電気によるショックを受けることがあるが、同じ理屈の現象が本機で発生する可能性を回避するため、点検前にはコンセントからプラグを抜くだけではなく、蓄積した静電気を逃がすことについても何らかの注意喚起が必要ではないだろうか?「安全第一」に国境は無いはずなので日本の関係法令による表示義務の有無に拘わらず、製品の安全に関する情報は積極的に開示?公表してユーザーにきちんと周知し、事故の未然防止に繋げるのが、使っていく上で安心?親切というものであり、何か起きてからでは遅すぎるのではないだろうか?▲▲取扱説明書の内容が初期モデルのものよりも大幅に簡略化されていて一段と不親切になっており、これでは肝心なことが何も伝わらず、次に述べることは初期モデルのものにも書かれていない。▲購入後初めて使う際に欠かせない事前の準備作業(リモコン送信機の電池ケースからハミ出ている透明な絶縁フィルムを引き抜かなければリモコンは機能しない !! )や事故防止のための注意喚起(電池交換の際は+/ーを間違えるとリモコンが故障する?ボタン電池は誤飲防止のため幼児の手の届かないところに保管する)、使用する際の一般的な知見(リモコンは赤外発光部を本体に向けて操作し、途中に障害物があると操作に支障を来す?本体裏ブタを開けると安全装置が働いて運転が停止する→突然運転が停止したときは、購入したばかりの新品が早くも故障したのか ? と余計な心配をさせられた。)、機能維持のための補修部品の詳細など、細かいことであっても決して疎かにできない重要で基本的なことがらをなぜ取扱説明書に必要十分に明記しないのだろうか?疑問が生じれば現状では逐一問い合わせなければ解決できないのに、「初歩的なことは今更言わなくてもわかるだろ ? 」と言われているように感じられて、国内メーカー品の説明書とはおよそ比較にならない。一方、英文の説明書には必要十分なことがもれなく書かれているのか、いろんな意味で関心を持たざるを得ない。説明書の内容が充実して素朴な疑問が全国から来なくなれば、問合せ電話の異常なまでの混雑も少しは緩和され、窓口担当者の負担も軽減されるのではないだろうか? ▲▲補修部品の扱いおよび、海外モデルを国内で使用する場合の注意について。日常の手入れの範囲内でユーザーが簡単に交換できる部品であっても、部品として販売(掲載)されてない物の交換については本体を丸ごとメーカーに送らねばならず、部品代の他、部品代よりも高い諸経費(技術料?手数料?往復の送料)までかかるとすれば本末転倒ではないだろうか? 「話せば分かるメーカー様」も国内に多数あるのに、ぜひ見習ってほしいものだ。また、この正規総代理店から購入した製品しか修理を受付けない、頑なで融通が利かない独自のシステムのため、海外で購入したモデルを日本国内で使用していて故障した場合は わざわざ元の購入先に対応を依頼するしかない(メーカー確認済)。装置の中身は国内モデルと殆ど同じであり、元はと言えば全て同じ工場で生産された物なのに、都度大変な不便を強いられるのは著しく合理性を欠いている。ユーザーの利便性に配慮する姿勢が全く感じられないアフターサービスは何とかしてほしいものだ。▲蛇足ながら、海外モデルに付属の集塵フィルタは国内モデルのもの(実測2.9kg)よりもずっと軽量(実測2.1kg)で、しかも添付画像のとおり、国内モデルのものとは大きく異なっていて3つに分解できる(添付画像集塵フィルタ右端に分解手順の英文説明あり。)ため奥の方まで掃除が行き届き、洗浄後も乾きが早く、日常の手入れがとても楽なのだが、メーカーに問い合わせても「海外モデルは取扱がないため関知しない」と、けんもほろろでハンコで押したような回答はマニュアルに沿ったものなのか?相互の間隔が狭くて奥行きのある多数の電極板のウラ?オモテ両面にしっかりこびりついたホコリや汚れは説明書に記載の方法で簡単に取れるようなものではなく、国内モデルのものを本格的に掃除するには日常の手入れの範囲を超えるがそれなりの手段(安全第一かつ自己責任)で分解するしかない。高額を投じて折角購入したのに国内モデルとの理由で同型の海外モデル並みの便利な仕組みを享受できないのは誠に不公平と言わざるを得ず、申し訳ないけれど差別を受けているように感じられて不愉快。部品を共通化すればメーカーにとっては管理しやすく、また、コスト削減が期待できるのはメーカー、ユーザー双方に有益なのに、気が回らないのだろうか?▲▲ホームページの構成も不親切!「問合せ」のページを見ても「メールでの問合せ方法」しか記載がなく、「問合せ電話番号」が全く別のページ(およそ関係なさそうなカテゴリ「会社概要」)に記載があることなど、そのページへの初回訪問者にどうやって知れというのか? 両者が同じページに記載されていれば探すのにさんざん難儀して無駄な時間と労力を費やさずに済むのに! なるべく問合せの電話が来ないよう意図的にそうしているのか? と「下衆の勘繰り(げすのかんぐり)」をしてしまう。 ユーザーに無用の誤解や混乱を招かないよう早急な改善を要望したのだが、いったい、いつになったら反映されるのだろうか? いっそのことメール?電話、両方の手順を上記の双方のページにダブって記載すればどうだろうか? 一見無駄なようでも情報は確実に伝わることのほうが重要だ。▲▲窓口の対応もマニュアルどおりなのか、案件を申し出てもまるで他人事(ひとごと)のような返事は事務的でただ単に機械的に処理しているように感じられてメール、電話ともに不親切。つけ加えるならば、▲電話では何ごとも窓口担当者としか話ができず、希望しても関係部署と直接には話ができないシステムのため、実務担当者にしかわからない入り組んだことについてのやり取りや細かい意思の疎通ができない。最悪の場合は伝言ゲームになってしまい、無駄なやり取りを繰り返して時間と労力を費やし、お互い不愉快な思いをすることになる。また、一般的なことで改善要望を申し出ても電話口では毎度ハンコで押したように「左様(さよう)でございますね。担当部署に申し伝えます。」と宣われるばかり。不都合を抱えている現実を認識しているのならいつまでも放置せず、外部から指摘されないうちに早々に改めればいいものを、その後いつまで経っても一向に何も反映されないのは、その場限りでうわべだけのやり取りに終始し、ユーザーを見下している(ただ受け流すだけで適当にあしらっている)のではないかと思ってしまう。「社の方針のため出来かねる」のであれば最初から納得のいく説明をしてくれればスッキリするのに、いかにも期待を持たせるかのような曖昧な回答には不信感が募るばかりで不愉快。▲フォームで問い合わせると、受け付けたことを示す自動返信メール(通常のメールで問い合わせても自動返信は来ない)には「回答までに2?3営業日いただくことがある」旨が明記されており、しかも特許情報の開示を求めている訳ではないのに、なかなか的を射た回答を得られず足元を見られているように感じてしまう。次のような事例も一度や二度ではなく、ある時などは、調べればその場ですぐわかることなのに問い合わせても何一つ回答が無いまま3週間も経過したため3度目の催促をすると、先方には催促の記録が残っていたにもかかわらず、またしても「調べて折り返し回答する」と「暖簾に腕押し」的に宣われたため「これ以上待ってもいつになるかわからないのでこのまま電話を切らずに今すぐ回答してくれるよう」頼んだところ、しばらく待たされたあとにやっとのことで納得のいく回答を得たが、こんなことを性懲り(しょうこり)もなく繰り返されてはヤル気や気配りが全く感じられず、誠に失礼ながら、好調な売れ行きの上に胡座(あぐら)をかき、ユーザーを愚弄しているように感じられて、折角の問い合わせ?提案意欲も失せてしまい、何のための相談室なのか? と思ってしまう。▲電話ではお互い名乗るのに、メールには担当者名の記載がなく、責任の所在が曖昧であるように感じられる。それ以前に、相手あってこそのビジネスなのだからメールと言えども社会通念に照らせばお互い名乗るのが至極当然の礼儀ではないだろうか? 今やメールが電話に取って代わる重要な連絡?伝達手段となっていることを考えれば尚更のこと。★「日本正規総代理店」様は、生産国から輸入した製品を日本国内で文字どおり代理的に販売するのが主たる業務であるならば、技術的なことを尋ねてもなかなか的を射た回答が来ないのは、ある意味、無理からぬことかもしれないが、高額を支払って製品を購入?使用しているユーザーの疑問や不安を迅速に解決?解消するとともに必要十分なサポートをすべく、更なる努力で国内の同業他社と遜色のない、良心的で質の高いサービスの提供をお願いしたいものだが、期待するだけムダなのだろうか?昔は「ビジネスで先方を長く待たせて余計な心配をさせるのは大変失礼だから、時間を要するときは求められずとも必ず中間報告を入れるように」と厳しく叩き込まれたものだが、近年は相手の意思確認を急ぎたい場面でさえ「とりあえずメールしといたから、わざわざ電話まですることないよね ? 」などというふうにビジネススタイルも大きく変わってしまったのだろうか? 目先の僅かな手間暇を惜しんだばっかりにあとでかえって大変な思いをするのはよくあることなのに何とも残念なことだ。▲▲領収書の発行に関する「画面上の表明事項」と「現実」とのくい違いについて。領収書が必要な場合、手数料は¥0(無料)なのに、購入手続中の画面でわざわざカートに入れねばならない面倒な仕組みだが、たったワンアクションと言えども煩わしい手順を求めるこのようなシステムにはこれまで一度も遭遇したことがなく、さっぱり意味がわからない。この県に限らずユーザー目線でものを考えることができないのだろうか? 高額な商品なのに、そもそも要求しなければ領収書を発行しないとはどういうことなのか? 本来領収書は購入した物品に無条件で添付するのが日本国内に於ける商取引の基本ではないのか?更に、画面には「領収書はメールと郵送の両方で発行する」「商品発送後一週間前後で登録の住所に郵送する」の2点が明記されているのに郵送分がいつまでも来ないため催促すると「メール登録があるユーザーには基本的にメールで送付し、更に希望があれば郵送する」と宣われたが、これでは郵送分は催促しなければ初めから発行する気など微塵もなかったことになり、画面上の表明事項と矛盾している。細かいことであっても自ら公言した内容を守らない(守れない)のなら画面上の表明内容を現状に合うよう修正しなければユーザーに無用の誤解や混乱を招く。会社の信用や企業イメージについてどう認識なさっているのだろうか?★上記で述べた、■■■その他■■■以降のもろもろの事情は当方の個人的な感想ながら、このメーカーの本国である米国流の今どきの仕事の進め方なのだろうか? そして、当方の認識は古くて改めねばならないのだろうか? 日本正規総代理店のスタッフ様の多くは日本人だろうに!?と思うとうんざりしてしまう。会社概要ページの事業内容に書かれている「『こころもつなげる』を実現する」とはユーザーの気持ちに寄り添うことではないのか? そして、これが社是であるとするなら、総代理店の名称「トゥーコネクト」は、まさにこの社是そのものではないのか? この社是らしきものに照らせば現状、いろんな面でユーザーに対する配慮が欠けていると思わざるを得ないこのサービスのありようはどうなのか?★★★まとめ★★★性能がいいものを作りさえすればそれだけでモノが売れたのはもう過去のこと、と言われている今こそ「モノづくり」→「営業」→「アフターサービス」→??というふうに、これらが相互に深く関わりあいながら好循環を持続することが一層求められているのではないだろうか?■■■■以下はその後に於ける各種事象についての追記■■■■▲付属リモコンの不都合について。付属リモコンの不都合(故障や不良ではないのであえて「不都合」とします。)については上記で述べたが、使っていくうち、予想どおり下記の現状を改善すれば確実に到達距離が伸び、使用可能な範囲も広がることがわかったので、加工して実現できれば使い勝手が向上してストレスは減るが、メーカー保証の対象外になり修理に出せなくなるのでお勧めはできない。実行する場合は安全第一を厳守の上、あくまでも全て自己責任で。①送信機側の赤外LEDおよび製品本体側の赤外受光素子が必要以上に奥まった位置に取り付けられている。これらの理由により、送信機側では発射する赤外光が拡がらないため、必要充分な放射角度が得られず、本体側では、ほぼ正面からの光しか検知できない。②空気の汚れ具合を数字で鮮やかに映し出すスクリーンの役目をしている白色の光拡散シートが、本来覆う必要のない受光素子まで覆っているため、送信機から到達した微弱な赤外光をさらに減衰させているのが致命的。専門家がなぜ、素人でもしない、このようなお粗末な設計をしたのか全く理解に苦しむところだ。▲安全に関する「メーカーとユーザー間での認識のズレ」について。取説には「危険なため内部には触れないように」と書かれているにもかかわらず、有名メーカーの高価な製品にしては、外からうっかり意図せず内部に触れてしまう意外なウィークポイントがあったとは「何をか言わんや」! 幼児でも機械の中身を簡単に触ることができる現状は放置せず、万が一の事故を未然に防止するための対策を早急且つ積極的に打つべきで、何かあってからでは遅すぎる。端緒となった状況を具体的に説明すると、本機の置き場所を変えるため持ち上げようとした際、空気の状態を色の変化で表示する箇所にうっかり手を掛け、誤ってその内側に触れてしまったが、何とも表現し難い不思議な感触に不安を覚えたため、よく観察すると数字表示部前面に貼られている上記白色の光拡散用シート(フレキシブルだが薄くて破れやすい材質)の延長部分が下部(まるで関取のマワシに見える部分の正面下部)で機器の内側方向に90°折り曲げ(はね上げ)られていて、多色表示用に横イチで基板上に並んでいるLEDを下から覆っており、目にやさしい柔らかい光を放つ仕組みとなっている。シート越しに伝わってくるデコボコとした、そして指がメリ込みそうな奇妙な感触の正体はこれだった !! また、何にでも強い好奇心を示す幼児は、大人がうっかり触れてしまう場所にも構わず簡単に手を入れる。このとき万が一、シートが捲れたり破れたりして剥き出しになった電子回路に触れると何らかの影響を及ぼしたり、或いは受ける恐れも充分にあるため、この部分には強度があり且つ可視光を通すプラスチック板などでしっかりと目貼りをすべきなのに、メーカーに申し出ると「シートが破れても影響はないが、なるべく触らないように。触っても感電することはない」などと宣い、話をすり替えるようなマト外れな回答には唖然とした。聞き分けの無い幼児に「さわるな!」と言い聞かせたところで何の効果もないことに気が回らないのだろうか? 「さわらないように」と言う前に「さわれない構造」或いは「万一さわっても安全で何の心配も無い構造」にするのが先決なのであって、コストよりも安全が最優先ではないのか?シートが破れること自体が問題なのではなく、そこから深刻な事態に発展する可能性を論じているのに、ユーザーが求める安全?安心など所詮、他人事(ひとごと)としか捉えてないように見受けられ、ユーザーを蔑ろにしているように感じられる姿勢には全く期待外れで失望した。品質管理には製品の安全性の管理まで当然含まれるはずで、ユーザーへの細やかな気配りに裏打ちされていることが前提だと思うのだが、モノづくりの基本が疎かにされているように思えてならない。もうひとつの問題は、シートが捲れるだけで簡単に剥き出しになる構造で取付けられている電子回路が、装置本体を置いた場所の環境条件(外気の温度?湿度?空気中に漂っているホコリや有害物質など)の影響を、丸裸に近い状態で受けてしまうこと。余談だが、空気の状態を検知するセンサーは、この表示部ではなく本体背面にある。▲スマホアプリによる、wifi 経由での本体操作機能について。結論から言えば個人的にこの機能が便利だとは少しも思わない(そもそも役立つ場面がない)。wifi の電波が届く範囲に本機を置けばスマホで操作でき、到達距離や範囲は広がるが、一時期、テレビの一部の機種のリモコンが、主流だった赤外線方式から電波方式になるも、取って代わるまでには至らなかったことを思い出す。取説41ページの「スマホアプリについて」を改めてよく読むと最下段に「本機の周囲が確認できる位置から操作するように」と表現された警告文があるとおり、自宅の外から本機を遠隔操作することは想定されておらず、やはり機能的にはほぼ付属リモコンの域を出ていない上、アプリを開くなどの余計な手間暇が増えるだけ煩わしい。「こんなことも出来るよ!」と宣伝しているだけのように感じられ、個人的にはこちらもやはり「オマケ程度」であり、付属リモコンの到達距離や範囲が広がってくれるほうがずっと使い勝手がよくなる。更に、ネット経由で操作する場合、タイムラグは避けられない。意図しない誤操作を防止するため、無用の長物的なこの電子回路基板は自己責任で早々に無効化するか、根こそぎ撤去したいものだ。因みに海外モデルには wifi 機能は搭載されておらず、本機はさしずめ日本国内で独自の進化を遂げた「かつてのガラパゴス携帯」といったところか。商品説明ページに表現されている「日本専用機種」とはこのことだったのか ? と使ってみて初めて気付いたが、なぜこのような仕様にしたのかメーカーに尋ねたところで、前記補修部品の項で述べたように「海外モデルは取扱がないので関知しない」との回答が返ってきそうで興ざめしてしまう。スマホをオマケ的なリモコンとして使う仕組みに技術をつぎ込むよりも、ユーザーがパソコンの挙動を自身の使い方に合わせてカスタマイズできるのと同様に、本機の挙動パターンについての細かい基本設定をカスタマイズできるようにすれば、本文前半で述べてきた本機の操作面での数々の不都合も大半は解消できるのではないだろうか?■電源電圧について。本機の電源は商用100Vだが、海外モデルは当然のことながら100~240Vのワールドワイド設計となっていて興味深いものがある。▲大きすぎる操作確認音への現実的な対応について。操作確認音に求めたいことを上記で述べたが、耳障りでどうにも我慢ならない大きな音も、原始的な方法ながら応急処置的に小さくすることができる。圧電ブザー表面の小穴をセロテープで塞ぐ(塞ぐ面積を調整する。完璧に塞いでしまうと音が全く聞こえなくなる)ことにより、手っ取り早く適度な音量にすることができるが、これももちろん安全第一と自己責任。ゆくゆくは電子的な方法で解決したいものだ。▲一向に飛ばないリモコンのせめてもの有効活用法について。たった 3m しか飛ばず使い物にならない! とリモコンに苛立つよりは、添付画像のように本体の前面に貼り付けるだけで、本体には無い「風量マイナスボタン」を有効に使えるので上記で述べたような煩わしい思いをせずに済む。不燃ゴミとして処分しなくてよかった!▲どうでもいいことと言ってしまえばそれまでだが、新たなる発見!電源ボタンを押して本体をオフにしたにもかかわらず、リモコンの「電源以外のボタン」を押したときも「ピッ」と操作確認音がする(音が出るだけでそれ以外の変化は起きない)ので、電源を切り忘れたのか? と思ったり、逆に、電源を切ってないつもりでいると、音は出るのになぜ動かないのか? などと余計な心配をしてしまう。本体の電源が切れている状態に於いては電源以外のボタンを押しても無効(機能しない)なので、この場面で操作確認音がするのはどう考えてもオカシイのではないか? メーカーに現状を説明すると担当者は「仰るとおり」と当方の考えに理解を示すも「現状では他の同機種も同じ挙動」との回答から、本機の仕様であることがわかったが、設計者の意図がわからず、こんな仕様になっている家電品を当方は他に知らない。今さら直すに直せない設計ミスの可能性も考えられ、ユーザーに無用の誤解や混乱を招かない仕様にしてほしいものだ。▲■▼世界最強の装置も万能選手とは思えない !!このご時世、アルコールスプレーを使うと、離れた場所にあるエアコンや他社の空気清浄機がまっ先に敏感に反応し、本機は殆ど反応しないのに、半田付け作業で出る気化したフラックスには異常なほど過敏に反応する。(二酸化炭素濃度測定器を選ぶ際はアルコールスプレーには反応せず、吹きかけた息に反応するNDIR方式の物がよい、とされているが、これとの関係や如何に?)そうかと思えば、シュレッダー内に溜った紙類の裁断くずをゴミ袋に移す際は、近くにある他社の空気清浄機は反応せず、離れた場所にある本機の表示数値がたちどころに上昇し、同期してランプの色が緑→黄緑→オレンジ→赤 と変化する。紙の裁断くずに含まれる、目に見えない微細な粒子は化学物質ではないが、本機が敏感に反応する様子が見て取れる。しかしながら、世界最強とされている本機と言えども上記で述べたとおり得手不得手があるようで、詳細を今後じっくりと時間をかけて検証していきたい。(空気の状態センサーもその種類により、得意とする検出物質に違いがある。)▼▼▼性能は世界最強かもしれないが、機能やサービス等については、なぜか首をかしげたくなることばかり。売れ行きが好調なようで結構なことだが、ユーザーの声に対しては「仕様だから」と頑なに答えるばかりではなく真摯に耳を傾け、機器やサービスに反映させれば機能も最強になると思うのに、性能がいいだけに誠に残念なことだ。▲■▼直近で寄せられた他のカスタマー様からのレビューを見て追記20211006「購入後〇〇経過して□□が不具合になった」ことがわかるレビューは、似かよった事例の発生を予測できるため、同じ物のユーザーとしては大いに役立つ。当方の装置も購入後半年経過する頃どうなるのか半分楽しみだが、私見ながら、空気の状態センサーの寿命はこんなものなのだろうか? それとも個体のばらつきなのか?▲■▼広告ページの新たな文言発見について追記添付画像のとおり「②親切丁寧!メーカー公認カスタマーセンター完備!」との文言があることに気付き、驚きを禁じ得ないが、当方の気付きが遅れただけなのか? メーカー及び販売店が本来ユーザーを良心的にサポートするのは「ごく普通のこと」と当方は認識しているので「親切丁寧!」とわざわざ表明なさるからには以前よりも、そして他社よりもサービスの質が格段に向上したのか? と思ってしまう。上記で述べてきた、首をかしげたくなるサービスの現状に鑑みれば何を以て「親切丁寧!」なのかサッパリ意味がわからないが、現実やユーザーの認識と乖離があリ過ぎるように感じられ、同じ日本人としてどうなのか? と思ってしまう。メーカー公認とは言いながら、カスタマーセンター完備の前後で上記の現状が少しは改善されたのか、そうでないのか? いったい何がどう変わったのか知りたいものだ。

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料理の際に出た生ごみを小袋でこまめに捨てたり、日当たりの良いところにおいて乾燥させたりしましたが、夏場にコバエが出たことから、前々から欲しかった生ごみ処理機を購入しました。静粛性とか処理中の臭いとかレビューで確認し本製品の購入となりました。発生音は冷却&乾燥のファンの常時音と、攪拌のカラカラ音が断続音が発生します。音の大きさは炊飯器や電気ポットの沸騰音と大差ない感じで生活時間帯では私は気になりません。寝ている時間に作動させる気にはなりません。作動中の臭いは多少しますが、処理機から離れたところにいれば気にならない程度です。中身にもよりますが、野菜や果物の皮より魚や肉のほうが強い臭いがします。調理時と同じですね。乾燥させたものも結構強い臭いを発します。処理中の臭いより、処理後に蓋を開けたときの臭いのほうが強いです。ですが、臭いの質が腐敗臭ではなく強いコンソメ臭だったり、焼き魚の臭いだったり、柑橘臭だったりなので嫌ではないです。生ごみの腐敗臭が嫌で夏場は週2回のゴミ出しをしていましたが、ゴミ袋がいっぱいになってからのゴミ出しで済むようになりました。大変満足しています。

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在宅勤務になり、北側の部屋で作業してるのですが、冬が近づき寒い。冷え性ではないのですが、靴下を履いても足先が全然温まらない。かといって、顔周りは涼しいほうが良いので暖房はつけたくない。。。ということで、机の下を暖かくするものを探しました。買うとき、床面に何もないのがとても気になり、大量に出ている中国製のものに傾きかけたりもしましたが、皆さんのコメントを参考に(中華系のはそもそも絶賛評価が不自然に多い。悪い評価は一様に暖かくないとか電源が燃えた!とか言ってる。。こちらのコメントは信頼できるものが多そうで評価も高め。)長年使われている商品で、かつ安心の日本メーカーということで、こちらの商品に決めました。結果、買ってよかったです!足先が完全に冷たい状態で使うと、暖まるまでに少し時間はかかりますが、適当にモモ裏などで温めたりしながら使ってるとすぐに暖かくなります。靴下不要です!ただ、他の方も言ってる通り、ふくらはぎ側は開放されてるので、真冬になったら、そっちもブロックするなどの工夫は必要かもしれません。一つ難点は、暖かい空気が机の下から風のように立ち上ってきて、コンタクトの目を直撃することです。目がしょぼしょぼになってしまう。。ということで、他の皆様のコメントにあるように、ひざ掛けで蓋をして、空気が上にあがってこないようにしてます。結果、こたつみたいになってちょうど良いかも。メーカー推奨ではないのは気になりますが、長時間それで放置するわけでもないし。。パネルが薄くて、じゃまにならず机の下に置きっぱなしにできるのも良いです。パネルがふにゃふにゃ、というコメントが有りましたが、まだ使って1ヶ月位ですが、これがそんなにふにゃふにゃになる気はしないです。。かなりしっかりしてます。どう使うとそんなにふにゃふにゃになるんだろう?毎回毎回しまってるとそうなるのかな??★1月追記ちなみに真冬な最近ですが、16度な室内だとやっぱりふくらはぎ側も布で蓋が必要でした。でも、そこまでこたつ化すると、逆に温度は弱で十分ぽかぽか。強だと暑い。もちろん靴下不要です。たまに移動するのでここから足抜くとサム~となるので、いかにポカポカかわかります。重宝してます!

何しろ明るい。コスパがいい。 軽いから取り付けもラクラク。 やや注意する点は二つ。 配線コードが短い。コンセントの場所によるが延長コードが必要な場合が多いと思う。 あと、明るすぎるから直視しないほうがいい。 ウチは洗面所のライトが完全に壊れたため リフォームまで一時的に使ってます。
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「スペインもまた東洋なのである。なぜなら、スペインは半分アフリカであり、アフリカは半分アジアだからである」
"l’Espagne c’est encore l’Orient ; l’Espagne est à demi africaine, l’Afrique est à demi asiatique."
ヴィクトル・ユーゴー《東方詩集》(1829)



【ポック(POC)#47】2022年11月11日(金)19時開演(18時半開演)〈アルベニス「イベリア」〉

イサク・アルベニス(1860-1909):《イベリア、12の新しい「印象」》(1905/08)
 第1集 〈I. 霊振(エボカシオン) - II. 港(カディス) - III. セビリアの聖体祭〉 20分

平野弦(1968- ):《HYPERCALIFRAGILISTICSADOMASOCHISM》(2022、委嘱初演) 5分

■アルベニス:《イベリア》第2集 〈IV. ロンデニャ - V. アルメリア - VI. トゥリアナ〉 23分

  (休憩10分)

フランシスコ・ゲレロ(1951-1997):《オプス・ウノ・マヌアル》(1976/81、東京初演) 14分

■アルベニス:《イベリア》第3集 〈VII. エル・アルバイシン - VIII. エル・ポロ - IX. ラバピエス〉 21分

ルーク・ヴァース(1965- ):《卡赫爾頌》(2022、委嘱初演) 4分

■アルベニス:《イベリア》第4集 〈X. マラガ - XI. ヘレス - XII. エリタニャ〉 20分
  [使用エディション/Henle社新訂版(2007-2013)]



平野弦:《HYPERCALIFRAGILISTICSADOMASOCHISM(ハイパーカリフラジリスティックサドマゾキズム)》(2022、委嘱初演)
  私が入学した国際海洋高校は全寮制で、音楽科はおろか、音楽の授業すらなかった。私たちが第一期生と言うことで、学校運営も授業内容も、諸々手探り且つ見切り発車的な感があった。それでも音楽室はあり、ピアノもあった。この音楽室は事実上私だけのものとなり、放課後や夜間にここで練習をした。
  当時校長だった井脇ノブ子(元衆議院議員)は、とてつもなく個性的且つ豪気な女性で、「ピアノを勉強するなら芸大に行け!」と(恐らく余りよく考えずに)檄を飛ばし、やがて本当に芸大の講師に月一回のレッスンを受ける手筈を整えて下さった。そして、一浪はしたものの、東京芸術大学ピアノ科に入学することができた。
  ボディビルを始めたのは、芸大のラグビー部に所属し、一人の先輩の勧めで筋トレを開始したのがきっかけだが、いつの間にかラグビーそっちのけでボディビルの沼にはまっていった。よく、筋肉とピアノの関連性、必要性を問われることがあったが、私にしてみれば二つは全く違う興味のベクトル上にあるものなので、期待されるような回答を示せたためしが無い。しかし、一つだけ言えるとすれば、馬鹿力で叩くフォルテッシモよりも、脱力時に於けるピアニッシモ(特に速いパッセージ)に筋肉は有用であると思われる。
  即興演奏や作曲は子供の頃から継続して行っていたが、いわゆる現代音楽に触れるまでの経緯は、先ず小学生時代にシンセサイザーが奏でるクラシック音楽に夢中になり、次いで、Yellow Magic Orchestraにどっぷりはまり、そのメンバーの坂本龍一がラジオで時折紹介する現代音楽と言うモノに次第に惹かれていったのだった。
  大井浩明氏に初めて会ったのは、もう30年前ほど昔、芸大第一ホールだったと思う。この度の思いがけない委嘱に際し、その頃のことを思い出しながら書いた。また、つい先頃この世を去った、私が最も敬愛した偉大な芸術家へのオマージュともなっている。(平野弦)


  1968年和歌山県新宮市生まれ。4歳からピアノを始める。私立国際海洋高校に第一期生として入学。東京藝術大学ピアノ科卒業。野村真理、神野明の各氏に師事。主な作品として、《花 ~テープ、チェロと舞踏のための》(1990)、《達也の骨と弦の骨 ~浜島達也とのコラボレーション・ヴィデオ》(1992)、《夜想曲"壊れた籠" ~左手のための》(1992)、《未知への展望 ~合唱、長唄とエレクトリック・チェンバロのための》(1993)、《前奏曲とフーガ》(1996)、《練習曲ヘ短調(第1稿・第2稿》(2006)等。


ルーク・ヴァース:《マウリシオ・カーゲル「ルートヴィヒ・ヴァン、任意の編成のためのベートーヴェン頌」(1969)によるカーゲル頌》(2022、委嘱初演)
  芸術家が自らの実践を振り返り、洞察する「芸術研究」の確立により、解釈の技法はより豊かな視点で見直されるようになった。演奏家の営為について論評するのはもはや音楽学者だけではなく、演奏家自身が自らの実践を教室で語っている。演奏家たちは、自分たちの行っている営為の機微を、自分たち独自の視点から考察し、発表している。
  このような学際化は、西洋のクラシック音楽の演奏を特徴づけてきた解釈の多様性への関心に、さらに拍車をかけている。私自身の研究テーマの一つに、マウリシオ・カーゲルの音楽特性がある。特に、ベートーヴェン生誕200年を記念して書かれ、マドリードで初演された《ルートヴィヒ・ヴァン》(1970)は、私の関心を曳き続けている。家具が置かれた部屋の写真にベートーヴェンの楽譜をコピーを貼り付けただけの奇妙な楽譜の序文で、カーゲルは楽譜の解釈法を説明し、見たままの記譜法に基づいて、ピントの合ったものははっきりと、ピントの外れたものは不明確に(あるいはその逆に)即興演奏しようと提案した。序文の最後には「音楽家はここから先へ進むことができる」とあり、どこか謎めいた解釈の可能性を無限に広げている。
  カーゲル自身の指揮によるアンサンブル版《ルードヴィヒ・ヴァン》では、この指定を厳密に遵守し、時にはベートーヴェンのハ短調変奏曲の一部に基づく即興演奏を領導している。(まぎらわしいことに、写真を(非)明確な焦点で演奏したケースが想定されるため、カーゲルの自作自演が規定した方法で楽譜を演奏しているかどうかは不明である。) 楽譜を無制限の解釈行動に開放することは、逆説を生む。本質的には、伝統的な演奏も含め、どのような方法でベートーヴェンを演奏しても、カーゲルの楽譜に適合することになるからだ。
  大井浩明から新作を委嘱され、彼の無限のピアノテクニック、古今のピアノ文献と様々な時代楽器に精通していることを踏まえ、カーゲルに触発されつつ、さらに一歩前進することにした。もし《ルートヴィヒ・ヴァン》が、ベートーヴェン由来のほんのちょっとした要素がきっかけで、潜在的な多数の解釈を「遊び」、そのパラドックスが作曲者自身によって既に許容されているならば、このアイデアをメタレベルで他の作曲家にも広げてみてはどうだろうか。今のところ残る唯一の懸念は著作権である。その意味では、私の「作曲」は伝統的なものに留まり、パブリック・ドメインの曲からしか実験を始められない。大井はそこから先に進むかもしれないが。
  本作のタイトル自体が、カーゲル作品からの連想である。つまり、カーゲルも私もお気に入りである、非常に古い作曲家を非常に個人的に解釈した、《ヨハネス・ブラームス「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ 作品24」(1861/62)による大オーケストラのための「フーガのない変奏曲」》 (1973)である。(ルーク・ヴァース)


ルーク・ヴァース Luk Vaes, composer
  ルーク・ヴァースは、ベルギーの高等音楽教育機関であるオルフェウス研究所(ゲント)の「実験音楽の歴史的演奏実践(HIPEX)」部門の主任研究員として、博士課程カリキュラムである「docARTES」の教授と研究連携を兼務している。
  ゲントでクロード・コッペンスとホトフリート=ヴィレム・ラースに音楽の基礎を学び、さらにイヴォンヌ・ロリオ、オリヴィエ・メシアン、アロイス・コンタルスキー、イヴァ・ミカショフに師事した。ライデン大学より博士号(芸術学)を授与されたプラチナ リング レディース プラチナ900 シンプル pt900 pt ゆびわ 結び目 結び 指輪 ピンキーリング 華奢 重ねづけ 地金リング シンプル ホワイトデーは、多くの被引用数を誇っている。
  アール・ブラウン、マウリシオ・カーゲル、フレデリック・ジェフスキ、ジョージ・クラム、ヘルムート・ラッヘンマン、ジョン・ケージなどの作曲家たちと協働し、多くの新作を初演した。演奏はヨーロッパならびに米国でTV・ラジオ放送され、ソリストとしてアムステルダム・コンセルトヘボウ、ベルリン・ビエンナーレ、ワルシャワの秋、ルール・ピアノ音楽祭、ザルツブルク・モーツァルテウム、ロンドンのアルメイダ音楽祭等に出演。ウィーン、ザルツブルク、シエナ、シカゴ、ベルリン等でマスタークラスを行う。
  現代音楽アンサンブル《シャン・ダクション》芸術監督、様々な国際コンクールの審査員として招かれるほか、ベルギー国営放送の番組制作や、Mode Records(ニューヨーク)、Winter&Winter(ミュンヘン)におけるCD制作・録音も行っている。ルーク・ヴァースへの献呈作《複合過去》を含むカーゲル全ピアノ作品のCDは、英誌The Wireの年間ベストアルバムや仏誌ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュジックの「Choc」を含む、9つの国際賞を受賞した。



スペイン音楽史の中のアルベニス《イベリア》――野々村 禎彦

[スペイン音楽の最初のピークと歴史的背景]
  神聖ローマ帝国属領ヒスパニアだったイベリア半島は、領土を北アフリカに拡大するイスラーム帝国に8世紀初頭に組み込まれた(アル=アンダルス)。イスラーム帝国がウマイヤ朝からアッバース朝に交代すると、旧王朝の残党が再興した後ウマイヤ朝の拠点になり、首都コルドバはヨーロッパ最大の都市になった(最盛期の人口は50万人以上)。後ウマイヤ朝が1031年に内紛で消滅するとイスラーム支配地域は小国に分裂し、キリスト教徒のレコンキスタ(再征服)運動に飲み込まれてゆく。やがてキリスト教国はポルトガル王国、カスティーリャ王国、アラゴン連合王国に統合され、13世紀にはイスラーム支配地域はグラナダ王国のみになる。1469年、カスティーリャ・アラゴン両王の結婚でスペイン王国が成立し、グラナダは1492年に陥落した。
  スペインがレコンキスタに国力を割く間に、ポルトガルはイスラームの帆船と測量の技術を用いてアフリカ西岸を南下する航路を開拓し、1488年に希望峰に到達した。グラナダが陥落するとスペインも遠洋航海に参入し、同1492年にコロンブスは西廻り航路でアメリカ大陸を「発見」した。彼らが行ったのは西インド諸島における虐殺と略奪に過ぎないが、この「成果」を受けてローマ教皇はアメリカ大陸の大半の地域でスペインに植民地化優先権を与えた(ポルトガルの勢力圏はブラジルのみ)。コンキスタドールたちは、中米全域・南米カリブ海沿岸・メキシコ・南米太平洋沿岸を順次征服した。彼らの植民地経営はコロンブスに倣った絶滅政策だった。アステカ・マヤ・インカの古代文明を滅ぼし、原住民はこれらの文明を支えた貴金属鉱山の奴隷として使い潰した。ヨーロッパから持ち込まれた伝染病の流行も相まって原住民は激減し、奴隷が不足するとアフリカから黒人を連行して補った。
  このような中世からルネサンスにかけての歴史は、スペイン音楽史を眺める上で欠かせない。スペインがクラシック音楽の表舞台に登場したのは、中南米から収奪した金銀で海軍を増強し、ヨーロッパの覇権を握ったルネサンス後期の百年と一致している。この時期のスペインを代表する4人の作曲家――クリストバル・デ・モラーレス(ca.1500-53)、フランシスコ・ゲレーロ(1528-99)、トマス・ルイス・デ・ビクトリア(1548-1611)、アロンソ・ロボ(1555-1617)――は、ブルゴーニュ楽派とフランドル楽派を代表する4人の作曲家――デュファイ、オケゲム、ジョスカン・デ・プレ、ラッソ――に対応する(時代の始まりに相応しい大らかな魅力、時代様式の可能性を突き詰めた実験性、時代様式を俯瞰する円熟した表現、時代の終わりに相応しいマニエリズム)。ブルゴーニュ楽派とフランドル楽派はポリフォニーの可能性を探求したが、スペインの作曲家はホモフォニーの表現性を探求した。

[国民楽派運動、ペドレル、そしてアルベニス]
  スペインの国力は中南米植民地の貴金属鉱山の枯渇と共に衰え、英国・オランダなど新興新教国に植民地の拡大でも敵わなくなる。さらに19世紀初頭、ナポレオンのイベリア半島支配を契機に中南米の植民地では独立運動が始まり、1825年までにほぼ全域が独立した。スペイン本国では中産階級の形成は遅れ、産業革命も起こらなかった。1898年の米西戦争で残る植民地(キューバ・プエルトリコ・フィリピン)も失い、工業化の遅れたヨーロッパ南端の小国のみが残された。バロック・古典派時代で目立つ作曲家は、ドメニコ・スカルラッティ(1685-1757) 、アントニオ・ソレール(1729-83) 、ルイジ・ボッケリーニ(1743-1805) 、ホアン・クリソストモ・アリアーガ(1806-26) 、ギター奏者フェルナンド・ソル(1778-1839) 程度である(後半生をスペインで過ごしたイタリア人を含む)。
  だが、国力の凋落と共にクラシック音楽も衰退する一方だったわけではない。キリスト教文化とイスラーム文化、ロマを含むヨーロッパ人とアフリカ人の交流から生まれた、フラメンコをはじめとする豊かな民俗音楽がまだ残っている。ロシアや東欧と同様の国民楽派運動から、スペインのクラシック音楽は再び活気を取り戻す。この動きは独奏楽器のヴィルトゥオーゾたちから始まった。ヴァイオリンではパブロ・デ・サラサーテ(1844-1908)、ギターではフランシスコ・タレガ(1852-1909) とその後継者たち、そしてピアノでは本公演の主役、イサーク・アルベニス(1860-1909)
  ただし、アルベニスの作風は先行するヴィルトゥオーゾたちとは一線を画している。彼はスペインのルネサンス音楽を再発見した音楽学者=作曲家フェリペ・ペドレル(1841-1922) と1883年に出会って薫陶を受けた。ペドレルが門人たちに求めた「国民楽派」は、ロマン派の伝統に民俗音楽の素材をまぶしたような音楽ではなく、民俗音楽を通じてスペイン音楽黄金時代の輝きを取り戻そうとする壮大な試みだった。実際、ペドレルの弟子には、エンリケ・グラナドス(1867-1916)、マヌエル・デ・ファリャ(1876-1946)、ロベルト・ジェラール(1896-1970) という、「国民楽派」の枠を飛び越えて近代スペイン音楽を代表する作曲家たちが並んでいる。ルネサンス後期の作曲家たちはローマで活動したように、彼らが活動したのは主にパリだった

[ピアニスト=作曲家アルベニスについて]
  ピアニスト=アルベニスは4歳から公開演奏を始め、1875年のプエルトリコとキューバでの演奏会は新聞記事になった。この間を繋ぐエピソードとして、「6歳でパリ音楽院入学を認められたがボール遊びで控室の鏡を割って取り消された」に始まる、世界を股にかけて家出と密航を繰り返す波乱万丈の物語が用意されているが、大半が作り話のようだ。むしろこれは、ヴィルトゥオーゾ=アルベニスの顧客がどのような物語を求めていたかを示している。「神童」の賞味期限が切れた1876年にブリュッセル音楽院に入学してピアノと作曲を正式に学び、首席修了後に憧れのリストに師事を申し出たが叶わず、結婚してバルセロナに住み始めた時、同地の歌劇場の音楽監督を務めていたペドレルと出会った。
  ただしペドレルの影響は、ただちに現れたわけではない。アルベニスは1885年にマドリードに移住し、ヨーロッパ各地で演奏して「スペインのルビンシテイン」として知られるようになり、スペイン王家に出入りして作曲家や教師としても認められた。この時期の《スペイン組曲第1番》(1886) がペドレルの影響が見られる最初の作品だとされるが、まだ民俗音楽の断片を用いたサロン音楽に過ぎない。とは言ってもモダニズム以前、ドビュッシーも《小組曲》(1886-89) すら書き始めていない時期ではしかたない。1890年、銀行家マニー=カウツのお抱え作曲家としてロンドンに移住し、英語オペラを書きながら演奏活動も続けた。《スペインの歌》(1892/98) はその合間に書かれたが、その書法は後のドビュッシーの方向性を予言している。
  彼は1894年にパリに居を移すが、マニー=カウツは終生彼を援助し続けた。今回の移住の目的は、パリの優れた作曲家たちと交流して作曲の腕を磨くことであり、例えばアルハンブラ宮殿を描いた《ラ・ベガ》(1897) は《スペインの歌》からさらに踏み込んだ内容を持ち、この曲を彼自身の演奏で聴いたドビュッシーは感激のあまり「今すぐグラナダに行きたい!」と伝えたという。彼は同年からスコラ・カントゥルムのピアノ科で教鞭を執り、党派的にはドビュッシーとは対立することになるが、優れた作曲家同士のリスペクトはそれを乗り越える。歌曲と管弦楽曲ではいち早く時代の先頭に立ったドビュッシーが、ピアノ曲でようやく殻を破った《版画》(1894-1903) の3曲は、その際にドビュッシーが参照したものを物語る。旧作リライトの〈雨の庭〉はフランス・バロック鍵盤音楽、〈パゴダ〉はガムランなど東南アジアの民俗音楽、そして〈グラナダの夕暮れ〉はアルベニスのピアノ曲に他ならない
 1900年頃から腎臓病が悪化して演奏活動は困難になり、彼は教職も辞して作曲に専念する。パリとニースを往復して療養に努めたが快方には向かわず、仏領バスクの温泉保養地カンボ=レ=バンで49歳の誕生日の直前に亡くなった。32歳で書いた《スペインの歌》はop.232という作品番号を持っており、彼は元々多作だったが、《ラ・ベガ》と《イベリア》(1905-08) の間に書いたのは、マニー=カウツの援助への謝礼の英語オペラ1作と、明らかに試作品のピアノ曲《3つの即興曲》(1903) と若干の歌曲のみ。慣れない教職を務め、悪化してゆく体調と折り合いをつけるのにも時間を要したとはいえ、10年近い準備期間を要するほど、《イベリア》は隔絶した作品だった。青年時代の彼が多作だったのは、既成の形式に素材を流し込む作曲で満足していたからにすぎない。民俗音楽素材の魅力を拡張された対位法の感覚で引き出せるようになった《ラ・ベガ》も、2種類の素材が交代しながら発展し、分厚く音を重ねてクライマックスを築くあたりはまだ型通りである。しかし《イベリア》に至ると、「形式」は素材から自律的に導かれるようになる。
  民俗音楽素材から想起される地名をタイトルに持つ「12の新しい『印象』」というと、往々にして情景描写的な音楽と受け取られがちだが、実際に行われているのは高度に抽象的な作業である。素材は調性的なものに限られ機能和声には従っているが、これはビバップにおけるコード進行のような、音楽ゲームを捗らせる適度な制約として機能しており、全12曲80分という作品規模の要因だろう(この制約を取り払ったドビュッシー《前奏曲集》は、12曲2巻でようやく同規模に達している)。ただし《イベリア》の作曲開始年は《サロメ》初演の年、作曲終了年は《エレクトラ》初演の年にしてシェーンベルクが無調に踏み込んだ年であり、音組織の革新に関心が集まっていた同時代には、その先進性は殆ど理解されなかった。その真価を例外的に見抜いていたのが他ならぬドビュッシーであり、《前奏曲集》(1909-10/1911-13) の作曲中もその後も、そのピアノの譜面台には《イベリア》が乗せられていたという。20世紀音楽の扉を開いたドビュッシーを、生涯にわたって(個人的な関係ではなく、作品を通じて)導き続けた唯一の作曲家がアルベニスである。


[アルベニス以降のペドレル門下生たち]
  グラナドスはパリでピアノを学び、その人脈でティボーやヌヴーの伴奏など室内楽奏者として活躍した。主な創作分野はピアノ曲で、大規模なプログラムを持つ組曲《ゴィエスカス》(1911) が代表作。オペラ化(1915) しNYのメトロポリタン歌劇場での初演は成功を収めたが、帰国の途にドイツ軍の攻撃で亡くなった。ファリャは1907年からパリに移住し、アルベニスの紹介で芸術家集団「アパッシュ」に加わり、ラヴェルらと親交を結んだ。第一次世界大戦を逃れてマドリードに戻ると筆が進み、《スペインの庭の夜》(1909-15)、《恋は魔術師》(1914-15/15-16/24)、《三角帽子》(1916-17/18-19) と、国際的に知られる代表作が並ぶ。スペイン内戦で親友ロルカが殺されると心は祖国から離れ、1939年にアルゼンチンに亡命して同地で亡くなった。
  ファリャより20歳年下のジェラールの世代になると、第二共和制からスペイン内戦に至る歴史と創作は切り離せない。英国との連合軍でナポレオン支配を打破して独立を回復したスペインは、立憲君主制の近代的な中央集権国家に近づいてゆくが、その恩恵を受けられない労働者やカタルーニャとバスクの民族主義者の不満は蓄積され、第一次世界大戦後の不況を背景に爆発した。ストライキやテロが頻発する中、右派のプリモ・デ・リベラ将軍がクーデターで独裁権力を握ったが、世界大恐慌への対応を誤って1930年1月に首相を解任され、国王も任命責任を問われて1931年4月に亡命に追い込まれた。こうして第二共和制が成立し、1936年2月の選挙では左派が主義主張の違いを棚上げにして大同団結する人民戦線戦術で勝利した。教会領の没収など急進的な政策を続ける人民戦線政権を旧体制側は恐れ、同年7月にモロッコで蜂起した陸軍右派グループを支持して内戦が始まった。ソ連とメキシコ、及び欧米諸国の義勇軍(国際旅団)が人民戦線、ドイツ、イタリア、ポルトガルが反乱軍を支持した内戦は1939年4月に終結し、フランコ独裁が始まった。
  ジェラールはウィーンとベルリンでシェーンベルクから12音技法を学んだ最初の弟子のひとり。帰国後は左派の音楽政策に深く関与し、カタルーニャ民族主義を打ち出して社会主義リアリズムと折り合いをつけた。内戦に敗れるとフランスを経て英国に移住する。12音技法を本格的に使い始めた1950年が本当のキャリアの始まりで、4曲の交響曲(1952-53/57-59/60/67)、2曲の弦楽四重奏曲(1950-55/61-62)、カンタータ《ペスト》(1963-64)、管弦楽のための協奏曲(1965) は、シェーンベルクがカーターのように長生きして作曲を続けたかのような作品群だ。ジェラールと同世代のフェデリコ・モンポウ(1893-1987) は内戦と無縁な平穏な生活を送り、《ひそやかな音楽》(1959-67)、《歌と踊り》(1921-79) など、時代を超えた独自の作風を持つ。ジェラールの次世代にあたるのが、1930年にマドリードで結成された「スペイン8人組」である。エルネスト・アルフテル(1905-89)、ロドルフォ・アルフテル(1900-87) 兄弟を中心に、民俗音楽と新古典主義をブレンドし名称も6人組にあやかったグループで、構成員の生年は1895-1906年に広がる。

[フランコ独裁とスペイン現代音楽]
  ここでフランコ独裁について少々。非常に狡猾なフランコは、内戦初期には反乱軍の指揮をエミリオ・モラに任せ、枢軸国とのパイプ作りに専念した。優勢が固まった1937年7月にモラは都合よく飛行機事故で死亡し、軍の全権を握った。独伊の支援は反乱軍の命綱だったが、政権掌握後に第二次世界大戦が始まると、内戦による国力消耗を理由に参戦を拒んだ。参戦を求めるナチス支持者は独ソ戦に義勇軍として送り込んで始末し、大戦の推移を読み切っていたかのようだ。非民主的な独裁体制は戦後世界とは相容れないが、冷戦下では黙認されることも見越していた(フランコを排除すれば、共和国亡命政府が復帰して親ソ国が誕生する)。独裁は一代限りと定めて米国の支持を取り付け、「スペインの奇跡」と呼ばれた1960年代の高度成長で経済も安定した。フランコは1975年に亡くなり、政権を引き継いだカルロス国王は立憲君主制を選んで共和国亡命政府も解散し、民主化を経て国際社会に復帰した。
  フランコはナチスドイツのように前衛芸術を弾圧せず、むしろ抑圧的なソ連とは違うと言わんばかりに称揚した(ただしカタルーニャ・バスク民族主義に連なる芸術は厳しく弾圧した)。すると戦後前衛音楽も興隆し、20人近い大所帯のグループ「51年世代」が生まれた。現代詩の「27年世代」(ロルカやノーベル賞詩人アレイクサンドレら)から名称を借り、構成員の生年は1925-37年に広がる。結成時点では多くの作曲家がセリー技法を用いていたが、クリストバル・アルフテル(1930-2021, 「8人組」のアルフテル兄弟の甥) とルイス・デ・パブロ(1930-2021) は傑出していた。ふたりは60年代には徹底的に厳しいセリー音楽の書き手だったが、前衛の時代が終わると書法に柔軟性が加わってくる。C.アルフテルは《ドン・キホーテ》(2000)、パブロは《クリスティーナ》(1997-99) という集大成的なオペラを同時期に書き、ともに90歳を超える長寿を全うし、ふたりは最後まで並走していた。
  フランシスコ・ゲレーロ(1951-97) はほぼ独学で作曲を身に付け、クセナキスらに賞賛されて評価を高めてゆく。終生の代表作となった弦楽器のための連作《Zayin》シリーズ(1983-97) 着手後に一度作曲を止めたが、組み合わせ論とフラクタル理論を結びつけて内部構造を自律生成する方法論を1988年に編み出して作曲を再開し、この方法論をコンピュータ上に乗せた管弦楽曲《Sahara》(1991) で評価をさらに高めた。《Zayin》シリーズ完成直後に急逝した彼が、早すぎた晩年に最後に取り組んだのが、アルベニス《イベリア》全曲のオーケストレーション(1994-) だった。この仕事は未完に終わったが、数学的方法論を極めたゲレーロの最終到達点が《イベリア》だったことは、この作品のスペイン音楽史における存在感の大きさを象徴している。





# by ooi_piano | 2022-10-18 09:38 | POC2022 | Comments(0)

大井浩明 POC [Portraits of Composers] 第47~第51回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs III》
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-7)
[使用楽器] 1912年製NYスタインウェイ〈CD75〉
4000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.comアートアンドメディア株式会社
チラシpdf(


平野弦(1968- ):委嘱新作初演(2022)
ルーク・ヴァース(1965- ):委嘱新作初演(2022)
●フランシスコ・ゲレロ(1951-1997):《オプス・ウノ・マヌアル》(1976/81、東京初演)
イサク・アルベニス(1860-1909):《イベリアーー12の新しい「印象」》(1905/08、全12曲)



【ポック(POC)#48】2022年12月2日(金)19時開演(18時半開場)〈ドビュッシー・その1〉
永野英樹(1968- ):委嘱新作初演(2022)
ブルーノ・カニーノ(1935- ):《カターロゴ第2番(怒りの日?) 》(委嘱初演、2022)
クロード・ドビュッシー(1862-1918):《映像 第1集》(1905)、《同 第2集》(1907)、《24の前奏曲集》(1909/13)



2022年12月15日(木)19時開演(18時半開場) 東音ホール(「巣鴨駅」南口徒歩1分)
浦壁信二+大井浩明(2台ピアノ)
電話予約 03-3944-1538(全日本ピアノ指導者協会)ウェブ予約
クロード・ドビュッシー(1862-1918):《交響的素描「」》(1905/09) [A.カプレによる2台ピアノ版]、《映像 第3集(ジーグ/イベリア/春のロンド)》 [A.カプレによる2台ピアノ版]、《舞踊詩「遊戯」》(1912/2005) [J.E.バヴゼによる2台ピアノ版/日本初演]、《白と黒で》(1915)




【ポック(POC)#49】2023年1月27日(金)19時開演(18時半開場)〈ドビュッシー・その2〉
野平一郎(1953- ):《間奏曲第6番「ジャズの彼方へ Au delà du Jazz」》(2008/2022、改訂版初演
●ベツィ・ジョラス(1926- ):《ソナタのためのB》(1973、日本初演)
クロード・ドビュッシー(1862-1918):《版画》(1903)、《仮面》(1904)、《喜びの島》(1904)、《子供の領分》(1906/08)、《12のエテュード集》(1913/15)



【ポック(POC)#50】2023年2月18日(土)19時開演(18時半開場)〈ラヴェル傑作撰〉
浦壁信二(1969- ):委嘱新作初演(2023)
モーリス・ラヴェル(1875-1937):《水の戯れ》(1901)、《鏡》(1904/05)、《夜のガスパール》(1908)、《高雅で感傷的なワルツ》(1911)、《クープランの墓》(1914-17)、《スペイン狂詩曲》(1908/1923)[K.ソラブジ編独奏版、世界初演]



【ポック(POC)#51】2023年3月17日(金)19時開演(18時半開場)〈ロシア・アヴァンギャルド類聚〉
ジョナサン・パウエル(1969- ):委嘱新作初演(2023)
■N.A.ロスラヴェツ(1881-1941) : 3つの練習曲(1914)/ソナタ第2番(1916)
■A.V.スタンチンスキー(1888-1914) : ソナタ第2番(1912)
■S.Y.フェインベルク(1890-1962) : ソナタ第3番 Op.3 (1917)
■N.B.オブーホフ(1892-1954) : 2つの喚起(1916)
■A.-V.ルリエー(1892-1966) : 2つの詩曲Op.8 (1912)/統合 Op.16 (1914)/架空のフォルム(1915)
■B.M.リャトシンスキー(1895-1968) : ピアノソナタ第1番 Op.13 (1924)
■A.V.モソロフ(1900-1973) : 2つの夜想曲 Op.15 (1926)/交響的エピソード「鉄工場」 Op.19 (1927/2021)[米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演]






POC2022:戦後前衛の「源流の源流」と向き合う―――野々村禎彦

  POCシリーズも今年度で12期目。直近2期はロマン派まで遡った選曲であり、もう20世紀以降で取り上げるべき曲はなくなったと思われた方もいるかもしれないが、もちろんそうではない。少なくとも20世紀初頭には最重要のゴッドファーザーがいる。ドビュッシーである。彼の音楽を要素に切り刻むと、19世紀までに音楽史に登場しなかったものは何ひとつなく、これが彼の位置付けを難しくしている。それに乗じて彼を「最後のロマン派」に祀り上げて、その後音楽史は誤った方向に進んだと称する言説すらある。このような皮相な見方を網羅的な作品演奏で打ち砕いてゆくのがPOCシリーズの基本スタンスであり、今期は彼がピアノ独奏曲の作曲家として自己を確立した《版画》以降の主要作品全曲に加えて、作品を通じて彼を生涯にわたって導き続けたアルベニスの《イベリア》全曲と、「印象主義」の作曲家として彼と並走していたラヴェルの主要作品を取り上げる。POC第6期で扱った「戦後前衛の源流」アイヴズ、バルトーク、ストラヴィンスキーを導いた「源流の源流」に、いよいよ正面から挑む時が来た。また大井は、ウクライナ戦争以降ロシア音楽を忌避する風潮に抗して積極的に演奏会企画を行っており、その一環として今期の作品群と同時代のロシア・アヴァンギャルドも取り上げる。

  まずは、イサーク・アルベニス(1860-1909) とドビュッシーの関係について。スペインの国力は、中南米の植民地からの貴金属の収奪が「主要産業」になった16世紀にピークに達し、強大な海軍力でヨーロッパの覇権を握ったが、この時期はモラーレス、ゲレーロ、ビクトリア、ロボという後期ルネサンスを代表する作曲家を輩出した最初のクラシック音楽黄金時代でもあった。その後、新興新教国との競争の中で国力が衰えてゆくにつれてクラシック音楽も下火になったが、キリスト教文化とイスラーム文化、ヨーロッパ人とアフリカ人の交流から生まれた、フラメンコをはじめとする豊かな民俗音楽がまだ残っていた。19世紀後半、スペインはこの資産を使って国民楽派運動の波に乗る。ヴァイオリンのサラサーテやギターのタレガら、ロマン派の伝統に民俗音楽のエキゾティックな衣を被せたヴィルトゥオーゾたちがこの運動を牽引したが、ピアノのアルベニスもそのひとりとして登場した。
  しかしアルベニスは、先人たちの枠には収まらなかった。彼はスペインのルネサンス音楽を再発見した音楽学者=作曲家ペドレルと1883年に出会って薫陶を受けた。ホモフォニーの表現性を重視するスペインのルネサンス音楽と民俗音楽との相性は悪くない。ペドレルが求めた「国民楽派」は、民俗音楽を通じてスペイン音楽黄金時代の輝きを取り戻そうとする壮大な試みだった。アルベニスの作品に師の意図が反映されるまでには時間を要したが、作曲の腕を磨くためにウィーンと並ぶクラシック音楽の中心地パリに1894年に居を移すと成果が現れ始めた。アルハンブラ宮殿を描写した《ラ・ベガ》(1897) を彼自身の演奏で聴いたドビュッシーは感激のあまり、「今すぐグラナダに行きたい!」と伝えたという。彼は同年からスコラ・カントゥルムのピアノ科で教鞭を執っており、党派的にはドビュッシーとは対立することになるが、優れた作曲家同士のリスペクトはそれを乗り越える。
  ピアノ伴奏付き歌曲《抒情的散文》(1892-93)、《弦楽四重奏曲》(1893)、管弦楽のための《牧神の午後への前奏曲》(1891-94) と、ドビュッシーは19世紀末には既にさまざまな編成で時代の先端を行っていたが、ピアノ独奏曲だけは進むべき道を見出せなかった。1901年になってもまだ、《ピアノのために》の水準に留まっていた。時代の中心にして最前衛だったショパンの影から抜け出せずにもがいていた時、ドビュッシーはアルベニスと出会った。その音楽の核心は「古楽と民俗音楽の融合」であり、ドビュッシーも「古楽」としてはクープランやラモーを研究し、「民俗音楽」としては1889年パリ万博でジャワのガムランと出会って音階を用いていたが、まだ本質を捉えていなかった。その後アルベニスの音楽を知り、1900年パリ万博で再びガムランを聴き、オペラ《ペレアスとメリザンド》(1893-1902) 初演を経てようやく、《版画》(1903) でピアノ独奏曲の新たな道に踏み出す。
  《版画》の第1曲〈パゴダ〉はガムラン、第2曲〈グラナダの夕暮れ〉はアルベニス、第3曲〈雨の庭〉(《忘れられた映像》(1894) の1曲のリライト)はフランスバロック鍵盤音楽と、各曲の参照点は明白だが、問題は何を参照しているかである。20世紀初頭にガムランを真摯に参照する時点で十分進歩的だが、参照点が音階に留まる限りは全音音階や教会旋法など、同時代にドビュッシーの特徴とみなされてきたリストに新たな1頁が加わったに過ぎない。だが1900年のドビュッシーはガムランに、「それと比べればパレストリーナすら児戯に過ぎない精妙な対位法」を聴き取った。この拡張された対位法の感覚こそが、ドビュッシーが見出したアルベニスの音楽の真髄であり、〈グラナダの夕暮れ〉では参照点を明示して敬意を表している。
  その後のドビュッシーは、ラヴェルと競い合いながらピアノ独奏曲の書法を発展させてゆくが、アルベニスは腎臓病が悪化して演奏活動は困難になり、教職も辞して作曲に専念する。パリとニースを往復する療養生活の中で、アルベニスは《イベリア》(1905-08)を書き上げた。全12曲80分に及ぶ「12の新しい印象」は20世紀スペイン音楽の金字塔だが、ドビュッシーにも新たな啓示を与え、《前奏曲集》第1巻(1909-10)・第2巻(1911-13) が生まれた。《前奏曲集》の作曲中もその後も、ドビュッシーのピアノの譜面台には《イベリア》が乗せられていたという。アルベニスは仏領バスクの温泉保養地カンボ=レ=バンで1909年に亡くなったが、ドビュッシーを生涯にわたって導き続けた「戦後前衛の源流の源流の源流」なのである。

  続いて、モーリス・ラヴェル(1875-1937) とドビュッシーの関係について。ラヴェルは「旋律と伴奏」からなる伝統的な音楽様式を終生保ち続けたが、フランスでは長らく「進歩派代表」を務める巡り合わせになった。パリ音楽院でフォーレに師事したラヴェルは、1900年から1905年にかけて5回ローマ賞に応募したが、2回目の3位入選以外はすべて落選した。パリで活躍したスペイン人ピアニスト、リカルド・ビニェスが「アパッシュ」と名付けた芸術家集団の中心人物としてドビュッシーを強く支持していたことも、審査員たちの心証を悪くしたのだろう。だが、《水の戯れ》(1901) 、《弦楽四重奏曲》(1902-03)、歌曲集《シェラザード》(1903) で既に評価を確立していた作曲家が若手登竜門の賞を年齢制限で逃したのは、審査の方が誤っていたという世論が強まり、パリ音楽院の院長は辞任に追い込まれてフォーレが後任の院長となり、オペラ専門学校から器楽中心のカリキュラムへの改革が実現する。さらにそれまで「進歩派代表」だったドビュッシーは1904年に銀行家バルダックの妻エンマと不倫関係になり、糟糠の妻リリーを捨てて駆け落ちした。拳銃自殺を図り一命を取り留めたリリーに世論は同情し、多くの友人を失ったドビュッシーは「進歩派代表」の座からも滑り落ちた。
  当時のパリで「進歩的」なピアノ独奏曲が演奏される機会は、クリロン化成 ナイロンポリ袋 真空袋 彊美人 70ミクロン (厚み 70μ×幅 160×高さ 200mm) 100枚 高透明・五層構造・三方規格袋で散発的に行われるビニェスのリサイタルだけだった。《ピアノのために》ー《水の戯れ》ー《版画》・《喜びの島》(1903-04) ー《鏡》(1904-05) ー《映像》第1集(1901-05)・第2集(1907) ー《夜のガスパール》(1908) と、同じ会場で同じ演奏家が交互に初演する状況では意識しない方が難しい。《ピアノのために》の3ヶ月後に《水の戯れ》で先を行かれたことは、《版画》でドビュッシーが飛躍する契機になった。ラヴェルはさらに明確に意識している。内省的な曲が多い《鏡》に〈海原の小舟〉のようなコンサートピースが混じっているのは、この曲集で《喜びの島》も参照したからだし、《映像》で繰り返された3曲の性格対比を《夜のガスパール》は完全に踏襲している。ドビュッシーが愛娘クロード=エンマに捧げた《子供の領分》(1906-08) は、平易な書法の範囲でもピアノ独奏曲の本質は保たれると示した野心作だが、ラヴェルはこの方向性にも敏感に反応し、子供でも弾ける水準の書法のみを用いた連弾組曲《マ・メール・ロワ》(1908-10) で応えた。
  《マ・メール・ロワ》は、ラヴェルが中心になって立ち上げた独立音楽協会の第1回演奏会で初演された。国民音楽協会はフランクが中心になって立ち上げた由緒ある団体だが、フランク没後はダンディら保守派が牛耳り、進歩派は冷遇されていた。ビニェスのリサイタルを後援していたのは、ピアノ独奏曲は当時の花形ジャンルではなく、費用もかからなかったからにすぎない。進歩派の管弦楽曲が取り上げられる機会は稀で、ドビュッシーの主要作品でも《牧神》だけだった。シェーンベルクが無調に向かい、ストラヴィンスキーが鮮烈にデビューした機を捉え、彼らも評議委員に名を連ねる進歩的な団体として出発した。《マ・メール・ロワ》も《高雅で感傷的なワルツ》(1911) も《クープランの墓》(1914-17) も、その後のラヴェルの主要ピアノ曲は専ら管弦楽編曲を前提に書かれており、ピアノでなければ表現し得ない領域を探求するドビュッシーとの距離は開いてゆくばかりだった。

  最後に、あらためてクロード・ドビュッシー(1862-1918) について。彼とラヴェルの音楽は大雑把に「印象主義」と括られてきた。この分類は、商業音楽教程の最終段階に相当する、映画音楽の管弦楽法で特に重要になるが、その実体はラヴェルの管弦楽法に他ならない。これに限らず、ドビュッシーの音楽で様式化・標準化が可能な部分は、軒並みラヴェルが形にしてきた。だが、そこから零れ落ちたものは決して少なくない。アイヴズの深い淵のような無調ポリフォニーも、バルトークの「夜の音楽」も、ストラヴィンスキーの批評的な新古典主義も、みなドビュッシーに由来する。超一流の作曲家たちが彼の音楽に向き合った時、各々全く違うものを持ち帰っているのは驚くべきことだ。
  しかもドビュッシーの影響は直下の世代に留まらない。《チェロソナタ》(1915) は彼が度々参照してきたミュージック・ホールの音楽の集大成だが、彼の想像力は遠く時代を飛び越えてビバップのアンサンブルを予見している。シュトックハウゼンの「モメンテ形式」の発想の源泉を、後期ドビュッシーの音楽の不連続性に見る向きは多い。調性的な旋律はホワイトノイズや正弦波発振音のような非和声的なテクスチュアの中で本領を発揮するという発見は90年代の「音響派」の核心だが、その起源を遡ると《前奏曲集》第2巻の〈霧〉に辿り着く。もちろんこれらは一例にすぎない。ドビュッシーの音楽は、その後の音楽の可能性をすべて含んだ混沌のスープだった。その可能性は、今日でもまだ汲み尽くされていないのかもしれない。




# by ooi_piano | 2022-10-03 01:13 | POC2022 | Comments(0)
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松山庵(芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
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【第3回】 2022年10月1日(土)15時開演(14時45分開演)

S.S.プロコフィエフ(1891-1953)

●《憑霊(悪魔的暗示) Op.4-4》(1908/12) 3分

●ピアノ協奏曲第2番ト短調第1楽章 Op.16-1 (1913/23) [独奏版] 10分

●スキタイ組曲「アラとロリー」 Op.20 より〈邪神チュジボーグと魔界の瘧鬼の踊り〉(1915/2016) [米沢典剛による独奏版、初演]  3分

●ピアノソナタ第3番イ短調 Op.28「古い手帳から」(1907/1917) 8分

■ピアノソナタ第6番イ長調 Op.82 「戦争ソナタ」(1940) 27分
 I. Allegro moderato - II. Allegretto - III. Tempo di valzer, lentissimo - IV. Vivace

  (休憩)

■ピアノソナタ第7番変ロ長調 Op.83「スターリングラード」(1942) 18分
 I. Allegro inquieto - II. Andante caloroso - III. Precipitato

■ピアノソナタ第8番変ロ長調 Op.84「戦争ソナタ」(1944) 30分
 I. Andante dolce - II. Andante sognando - III. Vivace


プロコフィエフの手



ドンバスの大地が生んだ野性と知性―――大塚健夫

  プロコフィエフは1891年、帝政ロシアのエカテリノスラフ州(現在、ウクライナ共和国ドネツク州)、ソンツォフカの生まれである。母は優秀なピアニストであった。州の中心都市ドネツクから40kmほどの豊かな自然に恵まれたこの地まで、ウクライナを代表する作曲家レーインホルド・フリエール(グリエール)(1875–1956)がキエフから、モスクワからはセルゲイ・タネーエフ(1856–1915) がやってきて、10歳に満たないセリョージャ(プロコフィエフ)に和声や管弦楽法を教えていたというのも母の影響によるところが大きい。いま、毎日のニュースでこの地名を耳にしないことはないドネツク、炭田で有名だったドンバス地方であるが、交通手段の発達もあり帝政末期の文化的レベルはペテルブルグやモスクワと比べても遜色なかったということであろう。20世紀に入ってドンバス地方が工業地帯として発展してゆくとロシアから多くの人がやってきて、中には炭鉱労働者として送り込まれてきた囚人たちもいた。彼らはリタイア後、あるいは娑婆に出た後も家族と共にこの地に定住するようになり、ドンバスにロシア系の住民が多いのはこういった歴史も背景にある。

  1904年、13歳でサンクト・ペテルブルグの音楽院に入学を許されたプロコフィエフはリムスキー=コルサコフを感激させ、グラズノフから叱咤激励を受けて早くもピアノと作曲で注目を浴びる。彼のペテルブルグ時代のあの機械的なリズムとメタリックな響きをもつ作品、例えばピアノ協奏曲第2番(1913)、『束の間の幻影(原題はмимолётность,“ 瞬時”』(1918)、ピアノソナタ第3番(1918)(1907年の「古いノート」の習作をリライト)は、ペテルブルグ(1914年以降はペトログラード)郊外のパヴロフスクにあった音楽駅広場で初演されている。初演はいずれも賛否が激しく分かれたと「自伝」で述べているが、ピクニック気分で聴きに来るようなこの場所であの当時としては十分に「尖がった」音楽を聴衆にぶちかましたのだから、その反応は想像に難くない。この野外音楽ステージはその約50年前、ウィーンから毎夏ヨハン・シュトラウス・ファミリー(会社組織)の楽団がやってきて、ロシアの富裕層を相手にワルツを演奏して荒稼ぎをしていた場所だ。またドストエフスキーの『白痴』の第三編で、ヒロイン、ナスターシャがオーケストラの演奏中に客席でひと悶着起こす舞台になっているのもパヴロフスクのこの野外ステージである。

  1910年代はロシアに資本主義という景色が短い期間ながら現れるとても興味深い時代だった。プロコフィエフは他の芸術家と同じく、欧州まで及んだこの大波をエンジョイし、また足をすくわれている。ロンドンにいたセルゲイ・ディアギレフとの出会いは、ストラヴィンスキーのような「大当たり」にはならなかった。バレエ音楽『アラーとロリー』はディアギレフに『春の祭典(浄められた春)』の二番煎じだと言われ取り上げてもらえず、管弦楽の『スキタイ組曲』と形を変えて世にでる。1916年のモスクワでの作曲者自身の指揮による初演では、ティンパニ奏者が演奏中に楽器の皮を破ってしまったとか、グラズノフが聴くに耐えないと途中で退場したとか、『ハルサイ』のパリ初演に劣らぬエピソードが残されている。なお、「スキタイ」というのは紀元前8~3世紀にかけて今のウクライナの大地に君臨した遊牧騎馬民族、遊牧国家。残忍で好戦的な集団であった一方、スキタイ金細工と言われる極めて精巧な手工芸品を残しており、これらはエルミタージュ美術館やトプカプ宮殿博物館のコレクションの中でも第一級の至宝として評価されている。1910年代のロシアでは、画家で考古学者だったニコライ・リョーリヒ(1874–1947)のグループが、19世紀末の音楽・美術に別れを告げ初期のスラヴ人、スキタイ人まで遡ってロシアの民族芸術を再発見しようという運動を組織した。プロコフィエフはいにしえの遊牧民族のダイナミックな野性さと精密極まる創造性に、自分のルーツを見出していたのではないだろうか。

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  プロコフィエフの才能と躓きの両方をしっかり見据えていたのが、ロシア出身でのちにボストン交響楽団のシェフとなるセルゲイ・クーセヴィツキーである。逆タマ結婚で資金力のあったクーセヴィツキーは『スキタイ組曲』の譜面に6千ルーブル前払いしたという。ロシア初演のあとクーセヴィツキーの指揮によってパリで披露されたのは1923年になってからだったけれども。その後交響曲第2番はクーセヴィツキーに献呈されているし、4番はクーセヴィツキーの依頼、つまりスポンサーシップを糧に書かれている。

  ロシア革命の混乱を逃れ、日本経由で米国に渡り、欧州も含めて「西側」で過ごした18年間は、プロコフィエフにとって何だったのだろうかと改めて考える。結局彼はアメリカ資本主義全盛時代における金儲け一徹のショウ・ビジネス、また興行師ディアギレフが展開したモダンなショウ・ビジネスに相容れなかったということだろう。自伝の内容を全て信じてはいけないのかもしれないが、「ペトログラードの音楽生活の方が外国(ディアギレフ)より魅力的」という彼の言葉がそれを物語っている。ミシェル=ロスティスラフ・ホフマン (1915–1975) というペトログラード出身で1923年にパリに亡命しプロコフィエフと親交のあった音楽学者が書いている著書(『プロコフィエフ』 1962年、清水正和訳)の中に、あるフランス人の観察として、プロコフィエフがパリではよくマスクを付けていたこと、「彼は自分が気に入らない外の世界とのあいだには、越えがたい柵を設けていたようである」という指摘がある。ショウ・ビジネスの要素を吸収した上で新古典主義、さらには独自の様式に昇華していったストラヴィンスキー、移民後は殆ど作曲を行わずショウ・ビジネスをあくまで生活手段として割り切りピアニストとして米国で生涯を終えたラフマニノフ、この二人に比べるとプロコフィエフにとってはヨーロッパもアメリカも永住の場所とはならなかった。米国でプロコフィエフと交流のあったミンスク出身の作曲家ウラヂーミル・ドゥケーリスキー(1903-1969)(米国ではVernon Dukeとして知られる) は、ジャズのヒット・ナンバー 『ロッカー キャビネット ダイヤル錠 金庫 店舗 従業員 2列2段 4人用 貴重品ロッカー 貴重品入れ 民泊 ホテル セキュリティーボックス 貴重品保管庫 NSAFE-22』などを書いてショウ・ビジネスの世界で成功した移民だった 彼は1930年代、ソ連に戻ったプロコフィエフから熱心に帰国を勧められたが、熟慮の末米国に残った。一方でプロコフィエフに言われた通りクラシックの作曲も続け、その時はロシア語の名を記していたという。

  1918年、革命直後のペトログラードで、革命政府の初代教育人民委員(文相)だったアナトーリー・ルナチャルスキー(1875-1933) の了解を得て国外に出ている。ルナチャルスキーも現ウクライナ領のポルタワの出身だが、その彼に「仁義をきって」みたいな、佳き時代の人間関係があったのかもしれない。そして「スキタイ組曲、古典交響曲、ピアノ協奏曲第一番の譜面のみを鞄にいれて」(自伝)1903年に全通したシベリア鉄道でウラヂオストクに向かう。

  当時のウラヂオに筆者は想いを馳せる。明治末期から日本人の多くがフロンティアスピリット(風俗業等も含めて)でこの地に渡った。日露戦争で一旦下地になるがその後は増え続け、1917年には約3700名が「浦潮斯徳」に居住していたという。1991年のソ連崩壊後、それまで閉鎖軍事都市だったウラヂオでのビジネスが復活しても、2020年でウラヂオの在留邦人はせいぜい100名弱だった(その後はコロナによる引き揚げで激減)ことを考えると当時の日本人コロニーの勢いがわかる。1912年にはロシア閣僚会議でオデッサのドイツ人学校と、浦潮の「日本尋常高等小学校」がロシア国内の外国人学校として認可されている。プロコフィエフが浦潮から定期船で敦賀に渡ったのが1918年の6月、この時点でまだ革命軍はロシア極東に達していない。反革命軍を支持し、あわよくば領土を拡げるために日本が「シベリア出兵」を開始したのはこの年の8月である。プロコフィエフの日本滞在日記によれば、浦潮での日本行きヴィザの発給等に際し、かなり不愉快な思いをしたらしい。

  プロコフィエフがほぼ二カ月滞在した大正7年の日本にも想像を掻き立てられる。
  東京の帝国劇場で二回、横浜のグランドホテルで一回、ソロ・リサイタルを行った。帝劇でのプログラムには、『世界的作曲家洋琴家 セルギー・プロコフィエフ氏 ピアノ演奏會』と「大」が三回入っている。しかしこれが当時の日本の文化的後進性を表しているかと言えば必ずしもそうではない。ソナタ 1,2,3番とともに弾かれた『四つの小品』op.4 の終曲には、今日定着している『悪魔的暗示』という実に曲にふさわしい邦訳が既に使われている。想像するに、滞在中の作曲家と親交をもった大田黒元雄、あるいは徳川頼貞(紀州徳川家第十六代、ケンブリッジ大留学時に小泉信三と同宿)といった音楽学者たちは既に若きプロコフィエフの曲に通じていたのだろう。大田黒は1915年の著書で「シェーンベルグが現時点での終着点」という鋭い指摘を既にしている人でもあった。『悪魔的暗示』のロシア語の原題は Наваждение であり、おそらく仏訳 Suggestion diabolique からの重訳ではないかと思う。 現代においてНаваждениеという言葉の一般の意味は必ずしも悪魔や邪悪とは結びついておらず、「幻影」あるいは「見えないものが見えてしまう精神状態」であり、たとえばシンデレラの夜12時に鐘が鳴るまでは一種のНаваждениеなのだと知合いのロシア人が説明してくれた。ひとつよくわからないのは、プロコフィエフの滞在日記では寂しい自分の財布の中身を心配する記述がよく出てくるけれど、一方で箱根に行ったり、軽井沢に遊んだり、これまた横浜の娼館に出かけたり、外国人として不自由のないふた月を送っている点だ。麻布の自邸に「南葵(なんき)楽堂」というホールも建てていたという前述の徳川公爵から援助が出ていたのかもしれないが、作曲家はこのあたりのことをあえて語っていない。

  プロコフィエフがソヴィエト連邦となったロシアに完全帰国し市民権を得たのは1936年のことだが、1927年に一時帰国してコンサートで成功を収めている。前述のホフマンによれば1925年頃からソ連に帰ろうという決意はあったという。米欧のロシア音楽学者であるリチャード・タラスキン(今年7月1日、77歳で没)やフランシス・マースやらは、帰国の最大の理由として、プロコフィエフが西側の最新のモダニズムについて行かなくなったことを指摘しており、たしかにその後没するまでの彼の作風を見ているとこの指摘は正しいのかもしれないが、果たしてそうだったのだろうか。共産主義者という枠組みとは別の次元でもともとショウ・ビジネスを嫌い、より自然なかたちで自分の中の野性と知性を作品にして見せたかったプロコフィエフにとって、1920年代のソ連、少なくとも芸術の分野においてもスターリン旋風が荒れ狂うようになる以前のソ連は、彼にとって理想的な環境だったのかもしれない。仁義を切られてプロコフィエフを国外に送り出したルナチャルスキーは1929年までは教育人民委員(文相)の要職にあり「彼のあらゆる潜在能力を発揮させるために、プロコフィエフは我々の下に戻らなくてはならない」とまで言っている。

  プロコフィエフの正式帰国以前の1932~33年、彼の故郷ウクライナではスターリンの過激な農業政策が農村での食糧飢饉「ホロドモール」をもたらし、四百万人が餓死した。帰国後のプロコフィエフはスターリン政権下における「プロパガンダ」音楽も書いているが、これはショスタコーヴィチも同じであり、生きる、いや生き残るために致し方ないことであったはずだ。そのような環境の中で、バレエ音楽としての不朽の名作『ロメオとジュリエット』、そして「戦争ソナタ」といわれるピアノソナタの三部作といった傑作が生み出されてゆく。これらはまさに野性と知性のベスト・ミックスと呼ぶに値する作品であろう。
  プロコフィエフの音楽は最後の作品に至るまで調性をもった構成であったが、独自の透明な転調感が随所に聴かれる。ソ連時代、ベルコフという音楽学者が『現代和声の研究』(1962年)にこんなことを書いている。・・・・プロコフィエフはよくシューベルトの音楽における調関係について話した。彼はシューベルトが好んで工夫した「爆発的」な調性の脱線のことを考えていた。(ジェームス・バクスト『ロシア・ソビエト音楽史』 1966年、森田稔訳)。

  スターリン体制による作曲家と家族への直接の悲劇は戦後の1948年に起きた。プロコフィエフは1923年、ドイツでリナ(カロリーヌ)と結婚し、二人の息子をもうけモスクワに移住してきた。リナは父がカタロニア出身のスペイン人、母がウクライナ出身で、歌手であった両親の血を受け継ぎ音楽性豊かな女性だったようだ。ソ連に戻って2年後、プロコフィエフは24歳年下の翻訳家であり詩人でもあったミラ・メンデルソンと不倫の恋に落ち、リナとは別居生活となっていた。リナは欧米での長い暮らしもあって自由で社交的な女性でもあり、ソ連の市民が外国人と接するだけで逮捕されていた時代、英国大使館等に頻繁に出入りしていたようである。ある夜、小包を郵便局に受取りにきてほしいという電話がリナにあり、出かけていったリナは拉致され、一方的な裁判で北辺の地、コミでの8年間の矯正労働の刑に処せられた。1956年に刑期を終えて出所するが、1953年3月、スターリンが死んだ同じ日に病気で永眠したプロコフィエフには知るすべもなかった。リナは1974年にソ連を出てフランスに移り住むが、1991年に英国で91歳で没するまでソ連での自身に起きた不幸な出来事を語ることは殆どなかったという。一方のミラはモスクワに残り1968年に53歳で没、プロコフィエフが署名した二人の遺言にもとづき、ノヴォデーヴィチ寺院の墓に夫と一緒に葬られた。戦争ソナタ三部作の最後の作品、抒情性に富んだソナタ8番はミラに捧げられている。

  ところで1918年の日本経由米国往きの渡航費用についてその後、先妻リナの波乱万丈の生涯をまとめた Simon Morrison “The Love and Wars of Lina Prokofiev” (2013)を読んでいたら、米国の産業人サイラス・マコーミック・ジュニア(1859-1936)の援助についての短い記載があり、さらに調べたら2021年のシカゴ交響楽団のプログラムにこのことについて書かれている記事を見つけた。
  ロシアの10月革命の直前、米国の国務長官経験者、エリフ・ルートが率いる実業界の代表団がウラヂオストクからシベリアを縦断してペトログラードに入り、帝政に代わる「民主主義の定着」を当時期待されていたケレンスキーの新政府首脳と面談した。このメンバーの中に世界初の機械式刈取機を発明し「現代農業の父」と言われたサイラス・マコーミック(1809-1884) のジュニアがいた。彼は父の「マコーミック・ハーヴェスター社」をさらに拡大し、1902年には「インターナショナル・ハーヴェスター社(以下IH社)」と改名、その後20世紀を代表する総合農機メーカーとして名を馳せる。19世紀後半にはロシアにも輸出され、訪露の時点ではモスクワ郊外で現地生産の企画もあったようだがその後の革命で実現には至らなかった。
  この時ペトログラードにいたプロコフィエフは27歳、子供の頃に父が管理していたドンバスの広大な農地で動いていた「マコーミック」、馬に牽かせて刈取の生産性を向上させたゴツい仕掛けのブランド名は脳裏に焼き付いていたのだろう。どういう出逢いだったのかはわからないけれども、プロコフィエフは滞在中のマコーミック・ジュニアのところに乗り込んで行ったのではないだろうか。若き作曲家は『スキタイ組曲』の未公刊のスコアを見せ、アメリカ行きの援助を依頼する。IH社はシカゴ交響楽団を支えるスポンサー会社の一つであり、ジュニアはその譜面を音楽監督のフレデリック・ストック(1872–1942)に送った。ストックはプロコフィエフの疑うことのない才能に太鼓判を押してきたという。
  かくして青年プロコフィエフの渡航資金は得られた。しかし、当人は最初「南米に行くつもりだった」と自伝にも書いており、スポンサー側がどういうコミットメントをしたのかは定かではない点もまだある。
  前述のサイモン・モリソンは1964年ロンドン生まれ、タラスキン亡きあと期待される広い視野に立ったロシア音楽のスペシャリストの一人である。既にプロコフィエフに関する複数の著作があり、2011~15年までプロコフィエフ財団の会長も務めた。その後舞台芸術についても健筆をふるい、『ボリショイ秘史』(2016)は現代のスキャンダルも含めて興味深い内容の本。翻訳もこなれていて読み易い。




[cf.] 「プロコフィエフ日本滞在記」についてのブログ紹介記事(2005年7月11日)





────────────────────
〈公演予告〉

【第4回】 2023年1月7日(土)15時開演(14時45分開演)
松山庵(兵庫県芦屋市)
■D.D.ショスタコーヴィチ(1906-1975): 24の前奏曲とフーガ Op.87 (1951)
■S.I.タネーエフ(1856-1915): 前奏曲とフーガ 嬰ト短調 Op.29 (1910)
■M.ヴァインベルク(1919-1996): ピアノソナタ第6番 Op.73 (1960)
[使用エディション:ショスタコーヴィチ新全集版(2015)]

【番外編】 2023年3月17日(金)19時開演(18時半開場)〈ロシアン・アヴァンギャルド類聚〉
松涛サロン(東京都渋谷区)
■N.A.ロスラヴェツ(1881-1941) : 3つの練習曲(1914)/ソナタ第2番(1916)
■A.V.スタンチンスキー(1888-1914) : ソナタ第2番(1912)
■S.Y.フェインベルク(1890-1962) : ソナタ第3番 Op.3 (1917)
■N.B.オブーホフ(1892-1954) : 2つの喚起(1916)
■A.-V.ルリエー(1892-1966) : 2つの詩曲Op.8 (1912)/統合 Op.16 (1914)/架空のフォルム(1915)
■B.M.リャトシンスキー(1895-1968) : ピアノソナタ第1番 Op.13 (1924)
■A.V.モソロフ(1900-1973) : 2つの夜想曲 Op.15 (1926)/交響的エピソード「鉄工場」 Op.19 (1927/2021)[米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演]
●ジョナサン・パウエル(1969- ):委嘱新作初演(2023)



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<cf.>










# by ooi_piano | 2022-09-20 18:59 | Сны о России 2022 | Comments(0)
(※)【予約終了】満席となりました

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松山庵(芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
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〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
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【第2回公演】 2022年8月7日(日)15時開演(14時45分開場)

S.V.ラフマニノフ(1873-1943)

●前奏曲ヘ長調 Op.2 (1891) 3分

24の前奏曲集 Opp.3-2 / 23 / 32 (1892-1910) 70分
  I. Largo /Agitato 嬰ハ短調 - II. Largo 嬰ヘ短調 - III. Maestoso 変ロ長調 - IV. Tempo di minuetto ニ短調 - V.Andante cantabile ニ長調 - VI. Alla marcia ト短調 - VII. Andante 変ホ長調 - VIII. Allegro ハ短調 - IX. Allegro vivace 変イ長調 - X. Presto 変ホ短調 - XI. Largo 変ト長調 - XII. Allegro vivace ハ長調 - XIII. Allegretto 変ロ短調 - XIV. Allegro vivace ホ長調 - XV. Allegro con brio ホ短調 - XVI. Moderato ト長調 - XVII. Allegro appassionato ヘ短調 - XVIII. Moderato ヘ長調 - XIX. Vivo イ短調 - XX. Allegro moderato イ長調 - XXi. Lento ロ短調 - XXII. Allegretto ロ長調 - XXIII. Allegro 嬰ト短調 - XXIV. Grave 変ニ長調

(休憩)

山口雅敏(1976- ):《エピタフィア Эпитафия》(2022、委嘱初演) 7分

9つの練習曲集《音の絵(第1輯) Op.33》(1911) 24分
  I. Allegro non troppo ヘ短調 - II. Allegro ハ長調 - III. Grave ハ短調 - IV. Allegro イ短調〈赤頭巾と狼(初版)〉 - V. Moderato ニ短調〈カラータイマー〉 - VI. Non Allegro / Presto 変ホ短調 - VII. Allegro con fuoco 変ホ長調〈市場の情景〉- VIII. Moderato ト短調 - IX. Grave 嬰ハ短調

●前奏曲ニ短調(遺作) (1917) 2分

9つの練習曲集《音の絵(第2輯) Op.39》(1917) 38分
  I. Allegro agitato ハ短調 - II. Lento assai イ短調〈海とかもめ〉- III. Allegro molto 嬰へ短調 - IV. Allegro assai ロ短調 - V. Appassionato 変ホ短調 - VI. Allegro イ短調〈赤頭巾と狼(改訂版)〉- VII.Lento lugubre ハ短調〈葬送行進曲〉- VIII. Allegro moderato ニ短調 - IX. Allegro moderato, Tempo di marcia ニ長調〈東洋風行進曲〉

[使用エディション:ラフマニノフ新全集版(2017)]




山口雅敏:《エピタフィア Эпитафия》(2022、委嘱初演)
  数年前に訪れたモスクワ・ノヴォデヴィチ墓地で、念願だった音楽家たちの墓参りを行った。彫刻が施された美術作品のような墓で、目が釘付けになったのがエピタフィア(墓碑銘)だった。ドミトリー・ショスタコーヴィチの墓には、自身の名前を4つの音名にした「D-Es-C-H」の音符が刻まれており、これをモチーフとして用いた様々な作品が響いてくるようであった。アルフレート・シュニトケの墓には、フェルマータの付いた全休符にフォルテッシモ(fff)が刻まれていた。指揮者のロジェストヴェンスキーによれば、この「叫ぶ静寂」こそまさにシュニトケの音楽であるとの事だった。さらにゲンリッヒ・ネイガウスの墓には、ショパン《ピアノソナタ第2番》の第3楽章「葬送行進曲」の旋律が刻まれていたことも印象深い。音楽家たちの個性を象徴したこれらのエピタフィアは、墓を訪れる人々に想いを呼び起こさせてくれる。
  では、ニューヨーク郊外ケンシコ墓地にあるラフマニノフの墓はどうであろうか。ロシア正教の十字架(八端十字)に名前と生没年月日が刻まれているだけで、エピタフィアは目にすることはできない。
 ラフマニノフのエピタフィアに相応しい言葉や旋律、彼の音楽を象徴するものを考えてみた時、真っ先に思い浮かんだのは「鐘」の響きだった。彼は幼い頃によく聞いたノヴゴロドにある聖堂の鐘の音に特別な郷愁を感じ、作品の多くに「鐘」の音を連想させるモチーフを用いた。「ディエス・イレ(怒りの日)」のモチーフもラフマニノフの象徴と言える。《交響曲第1番 Op.13》《同第2番 Op.27》《ピアノソナタ第1番 Op.28》《交響詩「死の島」 Op.29》《合唱交響曲「鐘」 Op.35》《ヴォカリーズ Op.34-14》《音の絵 Op.39》などで、このモチーフが随所で引用されているが、なぜ死者のために歌われるグレゴリオ聖歌にこれほどにまで拘ったのだろうか。また、運命を暗示するような半音階も、ラフマニノフの作品を性格づける重要な特徴の1つに挙げられるであろう。そして、ピアニストとしてもラフマニノフは偉大な存在であり、彼が大切にしつづけ名録音を遺したショパン《ピアノソナタ第2番》も、エピタフィアとして刻みたい作品である。ラフマニノフが生涯最後となるコンサートのプログラムに選んだのもこの傑作であった。
  私の見解も含め、ラフマニノフ独自の創作スタイルや、彼の音楽に対する憧れを音で綴ってみた。また、ラフマニノフ作品の素晴らしい解釈者であった、あるピアニストへの追憶も込めている。(山口雅敏)


山口雅敏 Masatoshi Yamaguchi, composer
  兵庫県立西宮高校音楽科を経て、東京音楽大学卒業、同大学研究生修了。フランス国立ヴィルダブレイ音楽院の最高過程を金賞を得て卒業、また同大学院を最優秀で修了。エコール・ノルマル音楽院や、ベルギー在住のピアニスト、アラン・ヴァイス氏のもとでも研鑚を積む。フランスでの第6回メドックアキテーヌ・ピアノコンクール第3位。日本音楽指導者協会第9回ピアノコンクール全国大会第1位最優秀賞。東京と大阪でソロリサイタルを開催し2018年には、ウィーンのエロイカ・ザールにてWienerKlassikQuintettと共演しモーツァルト「ピアノ協奏曲第23番k.488」を演奏した。音楽誌「ムジカノーバ(音楽之友社)」や新聞への記事、書評の執筆を行う。論文も多数刊行されている。また、ピアノ連弾編曲が楽譜集「PIANO STYLEプレミアムセレクション」(リットーミュージック)に収録され、付属CDの演奏を創刊号より担当している。伊賀あゆみとのピアノデュオでも活動し、超絶技巧を駆使した演奏と、複雑な手の交差、アクロバットな体の動きを用いた見た目にも楽しい連弾作品や、世界(日本)初演となる珍しい作品の発掘、山口の採譜によるV.ホロヴィッツの編曲を華麗にリメイクした作品などのオリジナル編曲を中心に演奏し、「進化系デュオ」と評される。これまでにグレインジャー音楽祭、ラ・フォール・ジュルネ・オ・ジャポン・エリアコンサート、サントリー・ブルーローズ・ホール、紀尾井ホールでのスルタノフ記念コンサートなどに出演し、日本各地でコンサートを行うほか、文化庁の派遣によるピティナ学校クラスコンサートも行っている。また「4Hands EVOLUTION 進化系ピアノ連弾 」(VIRTUS CLASSICS)、「Homage to HOROWITZ on 4 Hands ホロヴィッツへのオマージュ」(T&K Entertainment/レコード芸術誌準特選盤)、「ショスタコーヴィチ交響曲第11番 1905年連弾版<世界初録音>」(VIRTUS CLASSICS/レコード芸術誌特選盤)の3枚のCDをリリース。モスクワのスクリャービン記念博物館でのコンサートや、クラクフでの音楽祭(SfogatoFestival)にも出演する。現在、神戸女子大学、大阪総合保育大学、兵庫大学非常勤講師。



ラフマニノフを捉え直す―――野々村 禎彦

  セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943) という作曲家=ピアニストを音楽史に位置付ける際に最初に参照点になるのは、モスクワ音楽院同期のライバルだった作曲家=ピアニスト、アレクサンドル・スクリャービン(1872-1915) である。ラフマニノフはモスクワ音楽院修了時にピアノ・作曲両部門の金賞(=大金賞)を得たが、スクリャービンはピアノ部門の金賞のみに留まった。ラフマニノフはロシア革命を逃れて米国に亡命し、主にピアニストとして活動を続けて十分な数の録音を残した。スクリャービンは生来虚弱で、上唇の潰瘍から感染した敗血症のため早逝し、ピアノ演奏音源は残されていない。

  伝記的事実の表面だけ眺めると、ラフマニノフの方が幸福な人生だったように見えるが、必ずしもそうではない。ラフマニノフとスクリャービンは共に多くの取り巻きに囲まれ、当人同士の関係は良好でも、取り巻き同士は激しく対立していた。ラフマニノフの取り巻きにはヴィルトゥオーゾとして熱狂する女性が多かった。スクリャービンの取り巻きには神秘主義まで含めて崇拝する文字通りの「信者」が多かったが、無調化以降の作風を高く評価しつつも問題点も指摘し、取り巻きのスノビズムには批判的だった音楽評論家サバネーエフのような真の理解者もいた。スクリャービンの死を受けて、ラフマニノフは遺族のために連続演奏会を企画したが、スクリャービンの取り巻きは彼の解釈を厳しく批判し、ショックを受けた彼は1年以上作曲ができなくなった(これを乗り越えてピアノ曲の最高傑作《音の絵第2集》(1916) を書き上げた)。米国亡命後はピアニストとしては成功したが、新古典主義全盛の音楽界の中で作曲家としての自信は衰えるばかりで、《鐘》(1913) や《徹夜祷》(1915) に匹敵する作品が書かれることはなかった。

  20世紀初頭における無調化は、新ウィーン楽派周辺のみならず、R.シュトラウスやシベリウスも巻き込んだ大きな潮流だった。その中でスクリャービンは、長3度・完全4度・増4度を堆積した「神秘和音」で「無調」のトーンを作り、持続音(ピアノ独奏曲ではアルペジオとトリルで代用)で時間を分節する、という単純だが明確な方法論を打ち出した。神秘和音の構成音は全音音階に極めて近く、その影響圏は「印象派風」の括りに埋もれがちだったが、「無調的な構成音と持続音による分節」まで拡大すれば、その影響圏は一挙に広がる。ロシア・アヴァンギャルドの作曲家の多くはこの意味ではスクリャービンの影響下にあり、シェルシもピアノ即興に基づく作品群で参照した。即興音楽における「無調」表現の現実的処方箋として、広義のスクリャービン流「無調」は広がっており、その影響は今日においてもまだ過去のものにはなっていない。

  他方ラフマニノフは、この潮流には全く与しなかった。米国亡命後に新古典主義に向かうこともなく、しかし同時代の潮流を批判するでもなく、「時代遅れ」という非難も甘んじて受け入れていた。死後の前衛の時代には扱いはさらに悪くなり、非専門家による一過性の人気だと切り捨てられた。この時代は、彼とスクリャービンの音楽を共に得意とするホロヴィッツのようなヴィルトゥオーゾが一世を風靡した時代でもあるわけだが、むしろ彼らの音楽がアクチュアリティを失い、差異が透明化された結果と見做せる。新ロマン主義の時代のラフマニノフ評価は、前衛の時代の批判をそのまま裏返した称賛に過ぎず、評価の枠組は変わらなかった。


  ここまで眺めてきたラフマニノフの評価軸には、抜け落ちているものがある。ピアニストとしてのラフマニノフである。彼の自己認識はあくまで作曲家であり、ピアノ演奏は生計を立てる手段に過ぎなかった(バルトークと同様)ので、そうなるのも無理はない。だが、SPやピアノロールに数多く残された彼の録音の復刻を一聴すれば、認識は一変するはずだ。彼は十度を楽に掴める大きな手と異常に柔軟な指関節を持ち、この身体的メリットを活かして楽曲の対位法構造を徹底的に抽出してモダニズムを体現した。この目的には伝統的な調性音楽の方が都合が良く、自作自演を前提にする限り、作曲家ラフマニノフは19世紀の語法を革新する必要は全くなかった。自作以外の主要レパートリーはショパンとベートーヴェンであり、ヴィルトゥオーゾ志向の作曲家=ピアニストにありがちな、表面的な技巧に淫するレパートリーへの嗜好は微塵もない。

  それならば、彼がなぜ自作に自信が持てなかったのかもわかる。彼の作曲上のライバルはスクリャービンなどではなく、クラシック鍵盤音楽史の最高峰をなす作曲家たちだったのである。そんな彼がJ.S.バッハをはじめとするバロック鍵盤音楽には手を出さなかったのは、ロマン派的な要素を求める嗜好も大きいのだろうが、新古典主義が「バッハに帰れ」をスローガンにしていたので忌避したという面もあるだろう。むしろ彼が手を付けなかったおかげで、この分野は20世紀後半に発展する余地があった。ヴェデルニコフやアファナシエフのような、対位法表現を表看板にしてJ.S.バッハを最重要レパートリーにするピアニストたちが、リスペクトするピアニストの筆頭にラフマニノフを挙げているのは必然である。

  スクリャービンのピアニズムの核心は精妙なペダル操作から生み出される音色表現だったと伝えられており、その信奉者たちはラフマニノフの演奏スタイルを「足はペダルに乗せているだけ」などと揶揄した。彼らがラフマニノフのスクリャービン解釈に批判的だったのもそのあたりが背景にある。だが、ラフマニノフのピアニズムの核心が対位法構造の表現ならば、ダンパーペダルの多用はそれを濁らせるだけである。彼が自らの演奏様式に自覚的だったとすれば、自作自演を前提に書かれたピアノ曲はその演奏様式も前提にしているはずだ。「対位法表現の器」として捉え直すことで、ラフマニノフの音楽に新たな扉が開かれるに違いない。「早すぎた代表作」〈前奏曲嬰ハ短調〉op.3-2の桎梏を、ショパンにならった全調性の24曲に溶け込ませて乗り越えた《24の前奏曲》(1892/1901-03/10) と、ロシア時代のピアノ曲の集大成《音の絵》(1911/16, op.33-4とop.39-6は本来は同一曲だが、今回取り上げるのは作曲年による創作様式の変化を織り込んだ補作版)。相手に不足はないはずだ。






# by ooi_piano | 2022-08-01 09:36 | Сны о России 2022 | Comments(0)

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