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内容量:A・B各7g
画像は商品イメージです。
商品の代表画像となりますので型番などの仕様に一致しない場合があります。


夜光プラスタはオリジナル発光玉を製作する、速硬性エポキシ系夜光塗料です。光沢があり、蓄光することにより発光しますので、深場や濁りがある時などに集魚効果抜群です。また、強固なエポキシ樹脂ですので、補強としての硬化も抜群です。

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持ち運びながら充電はできないと考えた方がいい。ケースで充電しても、2、3時間ぐらいしてから使おうとしたらケースもイアホンもローバッテリーで全然充電できてないし、ケースに至っては漏電したのかってぐらい消耗が早すぎる。そのためいつもどっちもコードで繋いで同時に充電する始末。音質は、いいのかもしれないが、外部の音が入りすぎる、4席離れた人の会話もしっかり聞こえる。集中できない。また、他の人が言っているようにゲーミングモードは音が途切れる。使えない。タッチ操作に関しては、使いにくいし、左に至っては反応しない。結論、このイアホンは値段ほどの価値がない。tribitのBluetooth5.1という5.2の一世代前のイアホンの方が明らかにいい。Bluetoothが最新というものに執着するのは良くない。一世代前の型落ちし、値段が下がったいいイアホンを買うのをおすすめします。

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「スペインもまた東洋なのである。なぜなら、スペインは半分アフリカであり、アフリカは半分アジアだからである」
"l’Espagne c’est encore l’Orient ; l’Espagne est à demi africaine, l’Afrique est à demi asiatique."
ヴィクトル・ユーゴー《東方詩集》(1829)



【ポック(POC)#47】2022年11月11日(金)19時開演(18時半開演)〈アルベニス「イベリア」〉

イサク・アルベニス(1860-1909):《イベリア、12の新しい「印象」》(1905/08)
 第1集 〈I. 霊振(エボカシオン) - II. 港(カディス) - III. セビリアの聖体祭〉 20分

平野弦(1968- ):《HYPERCALIFRAGILISTICSADOMASOCHISM》(2022、委嘱初演) 5分

■アルベニス:《イベリア》第2集 〈IV. ロンデニャ - V. アルメリア - VI. トゥリアナ〉 23分

  (休憩10分)

フランシスコ・ゲレロ(1951-1997):《オプス・ウノ・マヌアル》(1976/81、東京初演) 14分

■アルベニス:《イベリア》第3集 〈VII. エル・アルバイシン - VIII. エル・ポロ - IX. ラバピエス〉 21分

ルーク・ヴァース(1965- ):《卡赫爾頌》(2022、委嘱初演) 4分

■アルベニス:《イベリア》第4集 〈X. マラガ - XI. ヘレス - XII. エリタニャ〉 20分
  [使用エディション/Henle社新訂版(2007-2013)]



平野弦:《HYPERCALIFRAGILISTICSADOMASOCHISM(ハイパーカリフラジリスティックサドマゾキズム)》(2022、委嘱初演)
  私が入学した国際海洋高校は全寮制で、音楽科はおろか、音楽の授業すらなかった。私たちが第一期生と言うことで、学校運営も授業内容も、諸々手探り且つ見切り発車的な感があった。それでも音楽室はあり、ピアノもあった。この音楽室は事実上私だけのものとなり、放課後や夜間にここで練習をした。
  当時校長だった井脇ノブ子(元衆議院議員)は、とてつもなく個性的且つ豪気な女性で、「ピアノを勉強するなら芸大に行け!」と(恐らく余りよく考えずに)檄を飛ばし、やがて本当に芸大の講師に月一回のレッスンを受ける手筈を整えて下さった。そして、一浪はしたものの、東京芸術大学ピアノ科に入学することができた。
  ボディビルを始めたのは、芸大のラグビー部に所属し、一人の先輩の勧めで筋トレを開始したのがきっかけだが、いつの間にかラグビーそっちのけでボディビルの沼にはまっていった。よく、筋肉とピアノの関連性、必要性を問われることがあったが、私にしてみれば二つは全く違う興味のベクトル上にあるものなので、期待されるような回答を示せたためしが無い。しかし、一つだけ言えるとすれば、馬鹿力で叩くフォルテッシモよりも、脱力時に於けるピアニッシモ(特に速いパッセージ)に筋肉は有用であると思われる。
  即興演奏や作曲は子供の頃から継続して行っていたが、いわゆる現代音楽に触れるまでの経緯は、先ず小学生時代にシンセサイザーが奏でるクラシック音楽に夢中になり、次いで、Yellow Magic Orchestraにどっぷりはまり、そのメンバーの坂本龍一がラジオで時折紹介する現代音楽と言うモノに次第に惹かれていったのだった。
  大井浩明氏に初めて会ったのは、もう30年前ほど昔、芸大第一ホールだったと思う。この度の思いがけない委嘱に際し、その頃のことを思い出しながら書いた。また、つい先頃この世を去った、私が最も敬愛した偉大な芸術家へのオマージュともなっている。(平野弦)


  1968年和歌山県新宮市生まれ。4歳からピアノを始める。私立国際海洋高校に第一期生として入学。東京藝術大学ピアノ科卒業。野村真理、神野明の各氏に師事。主な作品として、《花 ~テープ、チェロと舞踏のための》(1990)、《達也の骨と弦の骨 ~浜島達也とのコラボレーション・ヴィデオ》(1992)、《夜想曲"壊れた籠" ~左手のための》(1992)、《未知への展望 ~合唱、長唄とエレクトリック・チェンバロのための》(1993)、《前奏曲とフーガ》(1996)、《練習曲ヘ短調(第1稿・第2稿》(2006)等。


ルーク・ヴァース:《マウリシオ・カーゲル「ルートヴィヒ・ヴァン、任意の編成のためのベートーヴェン頌」(1969)によるカーゲル頌》(2022、委嘱初演)
  芸術家が自らの実践を振り返り、洞察する「芸術研究」の確立により、解釈の技法はより豊かな視点で見直されるようになった。演奏家の営為について論評するのはもはや音楽学者だけではなく、演奏家自身が自らの実践を教室で語っている。演奏家たちは、自分たちの行っている営為の機微を、自分たち独自の視点から考察し、発表している。
  このような学際化は、西洋のクラシック音楽の演奏を特徴づけてきた解釈の多様性への関心に、さらに拍車をかけている。私自身の研究テーマの一つに、マウリシオ・カーゲルの音楽特性がある。特に、ベートーヴェン生誕200年を記念して書かれ、マドリードで初演された《ルートヴィヒ・ヴァン》(1970)は、私の関心を曳き続けている。家具が置かれた部屋の写真にベートーヴェンの楽譜をコピーを貼り付けただけの奇妙な楽譜の序文で、カーゲルは楽譜の解釈法を説明し、見たままの記譜法に基づいて、ピントの合ったものははっきりと、ピントの外れたものは不明確に(あるいはその逆に)即興演奏しようと提案した。序文の最後には「音楽家はここから先へ進むことができる」とあり、どこか謎めいた解釈の可能性を無限に広げている。
  カーゲル自身の指揮によるアンサンブル版《ルードヴィヒ・ヴァン》では、この指定を厳密に遵守し、時にはベートーヴェンのハ短調変奏曲の一部に基づく即興演奏を領導している。(まぎらわしいことに、写真を(非)明確な焦点で演奏したケースが想定されるため、カーゲルの自作自演が規定した方法で楽譜を演奏しているかどうかは不明である。) 楽譜を無制限の解釈行動に開放することは、逆説を生む。本質的には、伝統的な演奏も含め、どのような方法でベートーヴェンを演奏しても、カーゲルの楽譜に適合することになるからだ。
  大井浩明から新作を委嘱され、彼の無限のピアノテクニック、古今のピアノ文献と様々な時代楽器に精通していることを踏まえ、カーゲルに触発されつつ、さらに一歩前進することにした。もし《ルートヴィヒ・ヴァン》が、ベートーヴェン由来のほんのちょっとした要素がきっかけで、潜在的な多数の解釈を「遊び」、そのパラドックスが作曲者自身によって既に許容されているならば、このアイデアをメタレベルで他の作曲家にも広げてみてはどうだろうか。今のところ残る唯一の懸念は著作権である。その意味では、私の「作曲」は伝統的なものに留まり、パブリック・ドメインの曲からしか実験を始められない。大井はそこから先に進むかもしれないが。
  本作のタイトル自体が、カーゲル作品からの連想である。つまり、カーゲルも私もお気に入りである、非常に古い作曲家を非常に個人的に解釈した、《ヨハネス・ブラームス「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ 作品24」(1861/62)による大オーケストラのための「フーガのない変奏曲」》 (1973)である。(ルーク・ヴァース)


ルーク・ヴァース Luk Vaes, composer
  ルーク・ヴァースは、ベルギーの高等音楽教育機関であるオルフェウス研究所(ゲント)の「実験音楽の歴史的演奏実践(HIPEX)」部門の主任研究員として、博士課程カリキュラムである「docARTES」の教授と研究連携を兼務している。
  ゲントでクロード・コッペンスとホトフリート=ヴィレム・ラースに音楽の基礎を学び、さらにイヴォンヌ・ロリオ、オリヴィエ・メシアン、アロイス・コンタルスキー、イヴァ・ミカショフに師事した。ライデン大学より博士号(芸術学)を授与されたグリンピース 500g 送料無料 えんどう豆 国内加工 セール品 家飲み 宅呑み おつまみ 昔ながらのおやつ ポイント消化 ジッパー袋入は、多くの被引用数を誇っている。
  アール・ブラウン、マウリシオ・カーゲル、フレデリック・ジェフスキ、ジョージ・クラム、ヘルムート・ラッヘンマン、ジョン・ケージなどの作曲家たちと協働し、多くの新作を初演した。演奏はヨーロッパならびに米国でTV・ラジオ放送され、ソリストとしてアムステルダム・コンセルトヘボウ、ベルリン・ビエンナーレ、ワルシャワの秋、ルール・ピアノ音楽祭、ザルツブルク・モーツァルテウム、ロンドンのアルメイダ音楽祭等に出演。ウィーン、ザルツブルク、シエナ、シカゴ、ベルリン等でマスタークラスを行う。
  現代音楽アンサンブル《シャン・ダクション》芸術監督、様々な国際コンクールの審査員として招かれるほか、ベルギー国営放送の番組制作や、Mode Records(ニューヨーク)、Winter&Winter(ミュンヘン)におけるCD制作・録音も行っている。ルーク・ヴァースへの献呈作《複合過去》を含むカーゲル全ピアノ作品のCDは、英誌The Wireの年間ベストアルバムや仏誌ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュジックの「Choc」を含む、9つの国際賞を受賞した。



スペイン音楽史の中のアルベニス《イベリア》――野々村 禎彦

[スペイン音楽の最初のピークと歴史的背景]
  神聖ローマ帝国属領ヒスパニアだったイベリア半島は、領土を北アフリカに拡大するイスラーム帝国に8世紀初頭に組み込まれた(アル=アンダルス)。イスラーム帝国がウマイヤ朝からアッバース朝に交代すると、旧王朝の残党が再興した後ウマイヤ朝の拠点になり、首都コルドバはヨーロッパ最大の都市になった(最盛期の人口は50万人以上)。後ウマイヤ朝が1031年に内紛で消滅するとイスラーム支配地域は小国に分裂し、キリスト教徒のレコンキスタ(再征服)運動に飲み込まれてゆく。やがてキリスト教国はポルトガル王国、カスティーリャ王国、アラゴン連合王国に統合され、13世紀にはイスラーム支配地域はグラナダ王国のみになる。1469年、カスティーリャ・アラゴン両王の結婚でスペイン王国が成立し、グラナダは1492年に陥落した。
  スペインがレコンキスタに国力を割く間に、ポルトガルはイスラームの帆船と測量の技術を用いてアフリカ西岸を南下する航路を開拓し、1488年に希望峰に到達した。グラナダが陥落するとスペインも遠洋航海に参入し、同1492年にコロンブスは西廻り航路でアメリカ大陸を「発見」した。彼らが行ったのは西インド諸島における虐殺と略奪に過ぎないが、この「成果」を受けてローマ教皇はアメリカ大陸の大半の地域でスペインに植民地化優先権を与えた(ポルトガルの勢力圏はブラジルのみ)。コンキスタドールたちは、中米全域・南米カリブ海沿岸・メキシコ・南米太平洋沿岸を順次征服した。彼らの植民地経営はコロンブスに倣った絶滅政策だった。アステカ・マヤ・インカの古代文明を滅ぼし、原住民はこれらの文明を支えた貴金属鉱山の奴隷として使い潰した。ヨーロッパから持ち込まれた伝染病の流行も相まって原住民は激減し、奴隷が不足するとアフリカから黒人を連行して補った。
  このような中世からルネサンスにかけての歴史は、スペイン音楽史を眺める上で欠かせない。スペインがクラシック音楽の表舞台に登場したのは、中南米から収奪した金銀で海軍を増強し、ヨーロッパの覇権を握ったルネサンス後期の百年と一致している。この時期のスペインを代表する4人の作曲家――クリストバル・デ・モラーレス(ca.1500-53)、フランシスコ・ゲレーロ(1528-99)、トマス・ルイス・デ・ビクトリア(1548-1611)、アロンソ・ロボ(1555-1617)――は、ブルゴーニュ楽派とフランドル楽派を代表する4人の作曲家――デュファイ、オケゲム、ジョスカン・デ・プレ、ラッソ――に対応する(時代の始まりに相応しい大らかな魅力、時代様式の可能性を突き詰めた実験性、時代様式を俯瞰する円熟した表現、時代の終わりに相応しいマニエリズム)。ブルゴーニュ楽派とフランドル楽派はポリフォニーの可能性を探求したが、スペインの作曲家はホモフォニーの表現性を探求した。

[国民楽派運動、ペドレル、そしてアルベニス]
  スペインの国力は中南米植民地の貴金属鉱山の枯渇と共に衰え、英国・オランダなど新興新教国に植民地の拡大でも敵わなくなる。さらに19世紀初頭、ナポレオンのイベリア半島支配を契機に中南米の植民地では独立運動が始まり、1825年までにほぼ全域が独立した。スペイン本国では中産階級の形成は遅れ、産業革命も起こらなかった。1898年の米西戦争で残る植民地(キューバ・プエルトリコ・フィリピン)も失い、工業化の遅れたヨーロッパ南端の小国のみが残された。バロック・古典派時代で目立つ作曲家は、ドメニコ・スカルラッティ(1685-1757) 、アントニオ・ソレール(1729-83) 、ルイジ・ボッケリーニ(1743-1805) 、ホアン・クリソストモ・アリアーガ(1806-26) 、ギター奏者フェルナンド・ソル(1778-1839) 程度である(後半生をスペインで過ごしたイタリア人を含む)。
  だが、国力の凋落と共にクラシック音楽も衰退する一方だったわけではない。キリスト教文化とイスラーム文化、ロマを含むヨーロッパ人とアフリカ人の交流から生まれた、フラメンコをはじめとする豊かな民俗音楽がまだ残っている。ロシアや東欧と同様の国民楽派運動から、スペインのクラシック音楽は再び活気を取り戻す。この動きは独奏楽器のヴィルトゥオーゾたちから始まった。ヴァイオリンではパブロ・デ・サラサーテ(1844-1908)、ギターではフランシスコ・タレガ(1852-1909) とその後継者たち、そしてピアノでは本公演の主役、イサーク・アルベニス(1860-1909)
  ただし、アルベニスの作風は先行するヴィルトゥオーゾたちとは一線を画している。彼はスペインのルネサンス音楽を再発見した音楽学者=作曲家フェリペ・ペドレル(1841-1922) と1883年に出会って薫陶を受けた。ペドレルが門人たちに求めた「国民楽派」は、ロマン派の伝統に民俗音楽の素材をまぶしたような音楽ではなく、民俗音楽を通じてスペイン音楽黄金時代の輝きを取り戻そうとする壮大な試みだった。実際、ペドレルの弟子には、エンリケ・グラナドス(1867-1916)、マヌエル・デ・ファリャ(1876-1946)、ロベルト・ジェラール(1896-1970) という、「国民楽派」の枠を飛び越えて近代スペイン音楽を代表する作曲家たちが並んでいる。ルネサンス後期の作曲家たちはローマで活動したように、彼らが活動したのは主にパリだった

[ピアニスト=作曲家アルベニスについて]
  ピアニスト=アルベニスは4歳から公開演奏を始め、1875年のプエルトリコとキューバでの演奏会は新聞記事になった。この間を繋ぐエピソードとして、「6歳でパリ音楽院入学を認められたがボール遊びで控室の鏡を割って取り消された」に始まる、世界を股にかけて家出と密航を繰り返す波乱万丈の物語が用意されているが、大半が作り話のようだ。むしろこれは、ヴィルトゥオーゾ=アルベニスの顧客がどのような物語を求めていたかを示している。「神童」の賞味期限が切れた1876年にブリュッセル音楽院に入学してピアノと作曲を正式に学び、首席修了後に憧れのリストに師事を申し出たが叶わず、結婚してバルセロナに住み始めた時、同地の歌劇場の音楽監督を務めていたペドレルと出会った。
  ただしペドレルの影響は、ただちに現れたわけではない。アルベニスは1885年にマドリードに移住し、ヨーロッパ各地で演奏して「スペインのルビンシテイン」として知られるようになり、スペイン王家に出入りして作曲家や教師としても認められた。この時期の《スペイン組曲第1番》(1886) がペドレルの影響が見られる最初の作品だとされるが、まだ民俗音楽の断片を用いたサロン音楽に過ぎない。とは言ってもモダニズム以前、ドビュッシーも《小組曲》(1886-89) すら書き始めていない時期ではしかたない。1890年、銀行家マニー=カウツのお抱え作曲家としてロンドンに移住し、英語オペラを書きながら演奏活動も続けた。《スペインの歌》(1892/98) はその合間に書かれたが、その書法は後のドビュッシーの方向性を予言している。
  彼は1894年にパリに居を移すが、マニー=カウツは終生彼を援助し続けた。今回の移住の目的は、パリの優れた作曲家たちと交流して作曲の腕を磨くことであり、例えばアルハンブラ宮殿を描いた《ラ・ベガ》(1897) は《スペインの歌》からさらに踏み込んだ内容を持ち、この曲を彼自身の演奏で聴いたドビュッシーは感激のあまり「今すぐグラナダに行きたい!」と伝えたという。彼は同年からスコラ・カントゥルムのピアノ科で教鞭を執り、党派的にはドビュッシーとは対立することになるが、優れた作曲家同士のリスペクトはそれを乗り越える。歌曲と管弦楽曲ではいち早く時代の先頭に立ったドビュッシーが、ピアノ曲でようやく殻を破った《版画》(1894-1903) の3曲は、その際にドビュッシーが参照したものを物語る。旧作リライトの〈雨の庭〉はフランス・バロック鍵盤音楽、〈パゴダ〉はガムランなど東南アジアの民俗音楽、そして〈グラナダの夕暮れ〉はアルベニスのピアノ曲に他ならない
 1900年頃から腎臓病が悪化して演奏活動は困難になり、彼は教職も辞して作曲に専念する。パリとニースを往復して療養に努めたが快方には向かわず、仏領バスクの温泉保養地カンボ=レ=バンで49歳の誕生日の直前に亡くなった。32歳で書いた《スペインの歌》はop.232という作品番号を持っており、彼は元々多作だったが、《ラ・ベガ》と《イベリア》(1905-08) の間に書いたのは、マニー=カウツの援助への謝礼の英語オペラ1作と、明らかに試作品のピアノ曲《3つの即興曲》(1903) と若干の歌曲のみ。慣れない教職を務め、悪化してゆく体調と折り合いをつけるのにも時間を要したとはいえ、10年近い準備期間を要するほど、《イベリア》は隔絶した作品だった。青年時代の彼が多作だったのは、既成の形式に素材を流し込む作曲で満足していたからにすぎない。民俗音楽素材の魅力を拡張された対位法の感覚で引き出せるようになった《ラ・ベガ》も、2種類の素材が交代しながら発展し、分厚く音を重ねてクライマックスを築くあたりはまだ型通りである。しかし《イベリア》に至ると、「形式」は素材から自律的に導かれるようになる。
  民俗音楽素材から想起される地名をタイトルに持つ「12の新しい『印象』」というと、往々にして情景描写的な音楽と受け取られがちだが、実際に行われているのは高度に抽象的な作業である。素材は調性的なものに限られ機能和声には従っているが、これはビバップにおけるコード進行のような、音楽ゲームを捗らせる適度な制約として機能しており、全12曲80分という作品規模の要因だろう(この制約を取り払ったドビュッシー《前奏曲集》は、12曲2巻でようやく同規模に達している)。ただし《イベリア》の作曲開始年は《サロメ》初演の年、作曲終了年は《エレクトラ》初演の年にしてシェーンベルクが無調に踏み込んだ年であり、音組織の革新に関心が集まっていた同時代には、その先進性は殆ど理解されなかった。その真価を例外的に見抜いていたのが他ならぬドビュッシーであり、《前奏曲集》(1909-10/1911-13) の作曲中もその後も、そのピアノの譜面台には《イベリア》が乗せられていたという。20世紀音楽の扉を開いたドビュッシーを、生涯にわたって(個人的な関係ではなく、作品を通じて)導き続けた唯一の作曲家がアルベニスである。


[アルベニス以降のペドレル門下生たち]
  グラナドスはパリでピアノを学び、その人脈でティボーやヌヴーの伴奏など室内楽奏者として活躍した。主な創作分野はピアノ曲で、大規模なプログラムを持つ組曲《ゴィエスカス》(1911) が代表作。オペラ化(1915) しNYのメトロポリタン歌劇場での初演は成功を収めたが、帰国の途にドイツ軍の攻撃で亡くなった。ファリャは1907年からパリに移住し、アルベニスの紹介で芸術家集団「アパッシュ」に加わり、ラヴェルらと親交を結んだ。第一次世界大戦を逃れてマドリードに戻ると筆が進み、《スペインの庭の夜》(1909-15)、《恋は魔術師》(1914-15/15-16/24)、《三角帽子》(1916-17/18-19) と、国際的に知られる代表作が並ぶ。スペイン内戦で親友ロルカが殺されると心は祖国から離れ、1939年にアルゼンチンに亡命して同地で亡くなった。
  ファリャより20歳年下のジェラールの世代になると、第二共和制からスペイン内戦に至る歴史と創作は切り離せない。英国との連合軍でナポレオン支配を打破して独立を回復したスペインは、立憲君主制の近代的な中央集権国家に近づいてゆくが、その恩恵を受けられない労働者やカタルーニャとバスクの民族主義者の不満は蓄積され、第一次世界大戦後の不況を背景に爆発した。ストライキやテロが頻発する中、右派のプリモ・デ・リベラ将軍がクーデターで独裁権力を握ったが、世界大恐慌への対応を誤って1930年1月に首相を解任され、国王も任命責任を問われて1931年4月に亡命に追い込まれた。こうして第二共和制が成立し、1936年2月の選挙では左派が主義主張の違いを棚上げにして大同団結する人民戦線戦術で勝利した。教会領の没収など急進的な政策を続ける人民戦線政権を旧体制側は恐れ、同年7月にモロッコで蜂起した陸軍右派グループを支持して内戦が始まった。ソ連とメキシコ、及び欧米諸国の義勇軍(国際旅団)が人民戦線、ドイツ、イタリア、ポルトガルが反乱軍を支持した内戦は1939年4月に終結し、フランコ独裁が始まった。
  ジェラールはウィーンとベルリンでシェーンベルクから12音技法を学んだ最初の弟子のひとり。帰国後は左派の音楽政策に深く関与し、カタルーニャ民族主義を打ち出して社会主義リアリズムと折り合いをつけた。内戦に敗れるとフランスを経て英国に移住する。12音技法を本格的に使い始めた1950年が本当のキャリアの始まりで、4曲の交響曲(1952-53/57-59/60/67)、2曲の弦楽四重奏曲(1950-55/61-62)、カンタータ《ペスト》(1963-64)、管弦楽のための協奏曲(1965) は、シェーンベルクがカーターのように長生きして作曲を続けたかのような作品群だ。ジェラールと同世代のフェデリコ・モンポウ(1893-1987) は内戦と無縁な平穏な生活を送り、《ひそやかな音楽》(1959-67)、《歌と踊り》(1921-79) など、時代を超えた独自の作風を持つ。ジェラールの次世代にあたるのが、1930年にマドリードで結成された「スペイン8人組」である。エルネスト・アルフテル(1905-89)、ロドルフォ・アルフテル(1900-87) 兄弟を中心に、民俗音楽と新古典主義をブレンドし名称も6人組にあやかったグループで、構成員の生年は1895-1906年に広がる。

[フランコ独裁とスペイン現代音楽]
  ここでフランコ独裁について少々。非常に狡猾なフランコは、内戦初期には反乱軍の指揮をエミリオ・モラに任せ、枢軸国とのパイプ作りに専念した。優勢が固まった1937年7月にモラは都合よく飛行機事故で死亡し、軍の全権を握った。独伊の支援は反乱軍の命綱だったが、政権掌握後に第二次世界大戦が始まると、内戦による国力消耗を理由に参戦を拒んだ。参戦を求めるナチス支持者は独ソ戦に義勇軍として送り込んで始末し、大戦の推移を読み切っていたかのようだ。非民主的な独裁体制は戦後世界とは相容れないが、冷戦下では黙認されることも見越していた(フランコを排除すれば、共和国亡命政府が復帰して親ソ国が誕生する)。独裁は一代限りと定めて米国の支持を取り付け、「スペインの奇跡」と呼ばれた1960年代の高度成長で経済も安定した。フランコは1975年に亡くなり、政権を引き継いだカルロス国王は立憲君主制を選んで共和国亡命政府も解散し、民主化を経て国際社会に復帰した。
  フランコはナチスドイツのように前衛芸術を弾圧せず、むしろ抑圧的なソ連とは違うと言わんばかりに称揚した(ただしカタルーニャ・バスク民族主義に連なる芸術は厳しく弾圧した)。すると戦後前衛音楽も興隆し、20人近い大所帯のグループ「51年世代」が生まれた。現代詩の「27年世代」(ロルカやノーベル賞詩人アレイクサンドレら)から名称を借り、構成員の生年は1925-37年に広がる。結成時点では多くの作曲家がセリー技法を用いていたが、クリストバル・アルフテル(1930-2021, 「8人組」のアルフテル兄弟の甥) とルイス・デ・パブロ(1930-2021) は傑出していた。ふたりは60年代には徹底的に厳しいセリー音楽の書き手だったが、前衛の時代が終わると書法に柔軟性が加わってくる。C.アルフテルは《ドン・キホーテ》(2000)、パブロは《クリスティーナ》(1997-99) という集大成的なオペラを同時期に書き、ともに90歳を超える長寿を全うし、ふたりは最後まで並走していた。
  フランシスコ・ゲレーロ(1951-97) はほぼ独学で作曲を身に付け、クセナキスらに賞賛されて評価を高めてゆく。終生の代表作となった弦楽器のための連作《Zayin》シリーズ(1983-97) 着手後に一度作曲を止めたが、組み合わせ論とフラクタル理論を結びつけて内部構造を自律生成する方法論を1988年に編み出して作曲を再開し、この方法論をコンピュータ上に乗せた管弦楽曲《Sahara》(1991) で評価をさらに高めた。《Zayin》シリーズ完成直後に急逝した彼が、早すぎた晩年に最後に取り組んだのが、アルベニス《イベリア》全曲のオーケストレーション(1994-) だった。この仕事は未完に終わったが、数学的方法論を極めたゲレーロの最終到達点が《イベリア》だったことは、この作品のスペイン音楽史における存在感の大きさを象徴している。





# by ooi_piano | 2022-10-18 09:38 | POC2022 | Comments(0)

大井浩明 POC [Portraits of Composers] 第47~第51回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs III》
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-7)
[使用楽器] 1912年製NYスタインウェイ〈CD75〉
4000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.comアートアンドメディア株式会社
チラシpdf(


平野弦(1968- ):委嘱新作初演(2022)
ルーク・ヴァース(1965- ):委嘱新作初演(2022)
●フランシスコ・ゲレロ(1951-1997):《オプス・ウノ・マヌアル》(1976/81、東京初演)
イサク・アルベニス(1860-1909):《イベリアーー12の新しい「印象」》(1905/08、全12曲)



【ポック(POC)#48】2022年12月2日(金)19時開演(18時半開場)〈ドビュッシー・その1〉
永野英樹(1968- ):委嘱新作初演(2022)
ブルーノ・カニーノ(1935- ):《カターロゴ第2番(怒りの日?) 》(委嘱初演、2022)
クロード・ドビュッシー(1862-1918):《映像 第1集》(1905)、《同 第2集》(1907)、《24の前奏曲集》(1909/13)



2022年12月15日(木)19時開演(18時半開場) 東音ホール(「巣鴨駅」南口徒歩1分)
浦壁信二+大井浩明(2台ピアノ)
電話予約 03-3944-1538(全日本ピアノ指導者協会)ウェブ予約
クロード・ドビュッシー(1862-1918):《交響的素描「」》(1905/09) [A.カプレによる2台ピアノ版]、《映像 第3集(ジーグ/イベリア/春のロンド)》 [A.カプレによる2台ピアノ版]、《舞踊詩「遊戯」》(1912/2005) [J.E.バヴゼによる2台ピアノ版/日本初演]、《白と黒で》(1915)




【ポック(POC)#49】2023年1月27日(金)19時開演(18時半開場)〈ドビュッシー・その2〉
野平一郎(1953- ):《間奏曲第6番「ジャズの彼方へ Au delà du Jazz」》(2008/2022、改訂版初演
●ベツィ・ジョラス(1926- ):《ソナタのためのB》(1973、日本初演)
クロード・ドビュッシー(1862-1918):《版画》(1903)、《仮面》(1904)、《喜びの島》(1904)、《子供の領分》(1906/08)、《12のエテュード集》(1913/15)



【ポック(POC)#50】2023年2月18日(土)19時開演(18時半開場)〈ラヴェル傑作撰〉
浦壁信二(1969- ):委嘱新作初演(2023)
モーリス・ラヴェル(1875-1937):《水の戯れ》(1901)、《鏡》(1904/05)、《夜のガスパール》(1908)、《高雅で感傷的なワルツ》(1911)、《クープランの墓》(1914-17)、《スペイン狂詩曲》(1908/1923)[K.ソラブジ編独奏版、世界初演]



【ポック(POC)#51】2023年3月17日(金)19時開演(18時半開場)〈ロシア・アヴァンギャルド類聚〉
ジョナサン・パウエル(1969- ):委嘱新作初演(2023)
■N.A.ロスラヴェツ(1881-1941) : 3つの練習曲(1914)/ソナタ第2番(1916)
■A.V.スタンチンスキー(1888-1914) : ソナタ第2番(1912)
■S.Y.フェインベルク(1890-1962) : ソナタ第3番 Op.3 (1917)
■N.B.オブーホフ(1892-1954) : 2つの喚起(1916)
■A.-V.ルリエー(1892-1966) : 2つの詩曲Op.8 (1912)/統合 Op.16 (1914)/架空のフォルム(1915)
■B.M.リャトシンスキー(1895-1968) : ピアノソナタ第1番 Op.13 (1924)
■A.V.モソロフ(1900-1973) : 2つの夜想曲 Op.15 (1926)/交響的エピソード「鉄工場」 Op.19 (1927/2021)[米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演]






POC2022:戦後前衛の「源流の源流」と向き合う―――野々村禎彦

  POCシリーズも今年度で12期目。直近2期はロマン派まで遡った選曲であり、もう20世紀以降で取り上げるべき曲はなくなったと思われた方もいるかもしれないが、もちろんそうではない。少なくとも20世紀初頭には最重要のゴッドファーザーがいる。ドビュッシーである。彼の音楽を要素に切り刻むと、19世紀までに音楽史に登場しなかったものは何ひとつなく、これが彼の位置付けを難しくしている。それに乗じて彼を「最後のロマン派」に祀り上げて、その後音楽史は誤った方向に進んだと称する言説すらある。このような皮相な見方を網羅的な作品演奏で打ち砕いてゆくのがPOCシリーズの基本スタンスであり、今期は彼がピアノ独奏曲の作曲家として自己を確立した《版画》以降の主要作品全曲に加えて、作品を通じて彼を生涯にわたって導き続けたアルベニスの《イベリア》全曲と、「印象主義」の作曲家として彼と並走していたラヴェルの主要作品を取り上げる。POC第6期で扱った「戦後前衛の源流」アイヴズ、バルトーク、ストラヴィンスキーを導いた「源流の源流」に、いよいよ正面から挑む時が来た。また大井は、ウクライナ戦争以降ロシア音楽を忌避する風潮に抗して積極的に演奏会企画を行っており、その一環として今期の作品群と同時代のロシア・アヴァンギャルドも取り上げる。

  まずは、イサーク・アルベニス(1860-1909) とドビュッシーの関係について。スペインの国力は、中南米の植民地からの貴金属の収奪が「主要産業」になった16世紀にピークに達し、強大な海軍力でヨーロッパの覇権を握ったが、この時期はモラーレス、ゲレーロ、ビクトリア、ロボという後期ルネサンスを代表する作曲家を輩出した最初のクラシック音楽黄金時代でもあった。その後、新興新教国との競争の中で国力が衰えてゆくにつれてクラシック音楽も下火になったが、キリスト教文化とイスラーム文化、ヨーロッパ人とアフリカ人の交流から生まれた、フラメンコをはじめとする豊かな民俗音楽がまだ残っていた。19世紀後半、スペインはこの資産を使って国民楽派運動の波に乗る。ヴァイオリンのサラサーテやギターのタレガら、ロマン派の伝統に民俗音楽のエキゾティックな衣を被せたヴィルトゥオーゾたちがこの運動を牽引したが、ピアノのアルベニスもそのひとりとして登場した。
  しかしアルベニスは、先人たちの枠には収まらなかった。彼はスペインのルネサンス音楽を再発見した音楽学者=作曲家ペドレルと1883年に出会って薫陶を受けた。ホモフォニーの表現性を重視するスペインのルネサンス音楽と民俗音楽との相性は悪くない。ペドレルが求めた「国民楽派」は、民俗音楽を通じてスペイン音楽黄金時代の輝きを取り戻そうとする壮大な試みだった。アルベニスの作品に師の意図が反映されるまでには時間を要したが、作曲の腕を磨くためにウィーンと並ぶクラシック音楽の中心地パリに1894年に居を移すと成果が現れ始めた。アルハンブラ宮殿を描写した《ラ・ベガ》(1897) を彼自身の演奏で聴いたドビュッシーは感激のあまり、「今すぐグラナダに行きたい!」と伝えたという。彼は同年からスコラ・カントゥルムのピアノ科で教鞭を執っており、党派的にはドビュッシーとは対立することになるが、優れた作曲家同士のリスペクトはそれを乗り越える。
  ピアノ伴奏付き歌曲《抒情的散文》(1892-93)、《弦楽四重奏曲》(1893)、管弦楽のための《牧神の午後への前奏曲》(1891-94) と、ドビュッシーは19世紀末には既にさまざまな編成で時代の先端を行っていたが、ピアノ独奏曲だけは進むべき道を見出せなかった。1901年になってもまだ、《ピアノのために》の水準に留まっていた。時代の中心にして最前衛だったショパンの影から抜け出せずにもがいていた時、ドビュッシーはアルベニスと出会った。その音楽の核心は「古楽と民俗音楽の融合」であり、ドビュッシーも「古楽」としてはクープランやラモーを研究し、「民俗音楽」としては1889年パリ万博でジャワのガムランと出会って音階を用いていたが、まだ本質を捉えていなかった。その後アルベニスの音楽を知り、1900年パリ万博で再びガムランを聴き、オペラ《ペレアスとメリザンド》(1893-1902) 初演を経てようやく、《版画》(1903) でピアノ独奏曲の新たな道に踏み出す。
  《版画》の第1曲〈パゴダ〉はガムラン、第2曲〈グラナダの夕暮れ〉はアルベニス、第3曲〈雨の庭〉(《忘れられた映像》(1894) の1曲のリライト)はフランスバロック鍵盤音楽と、各曲の参照点は明白だが、問題は何を参照しているかである。20世紀初頭にガムランを真摯に参照する時点で十分進歩的だが、参照点が音階に留まる限りは全音音階や教会旋法など、同時代にドビュッシーの特徴とみなされてきたリストに新たな1頁が加わったに過ぎない。だが1900年のドビュッシーはガムランに、「それと比べればパレストリーナすら児戯に過ぎない精妙な対位法」を聴き取った。この拡張された対位法の感覚こそが、ドビュッシーが見出したアルベニスの音楽の真髄であり、〈グラナダの夕暮れ〉では参照点を明示して敬意を表している。
  その後のドビュッシーは、ラヴェルと競い合いながらピアノ独奏曲の書法を発展させてゆくが、アルベニスは腎臓病が悪化して演奏活動は困難になり、教職も辞して作曲に専念する。パリとニースを往復する療養生活の中で、アルベニスは《イベリア》(1905-08)を書き上げた。全12曲80分に及ぶ「12の新しい印象」は20世紀スペイン音楽の金字塔だが、ドビュッシーにも新たな啓示を与え、《前奏曲集》第1巻(1909-10)・第2巻(1911-13) が生まれた。《前奏曲集》の作曲中もその後も、ドビュッシーのピアノの譜面台には《イベリア》が乗せられていたという。アルベニスは仏領バスクの温泉保養地カンボ=レ=バンで1909年に亡くなったが、ドビュッシーを生涯にわたって導き続けた「戦後前衛の源流の源流の源流」なのである。

  続いて、モーリス・ラヴェル(1875-1937) とドビュッシーの関係について。ラヴェルは「旋律と伴奏」からなる伝統的な音楽様式を終生保ち続けたが、フランスでは長らく「進歩派代表」を務める巡り合わせになった。パリ音楽院でフォーレに師事したラヴェルは、1900年から1905年にかけて5回ローマ賞に応募したが、2回目の3位入選以外はすべて落選した。パリで活躍したスペイン人ピアニスト、リカルド・ビニェスが「アパッシュ」と名付けた芸術家集団の中心人物としてドビュッシーを強く支持していたことも、審査員たちの心証を悪くしたのだろう。だが、《水の戯れ》(1901) 、《弦楽四重奏曲》(1902-03)、歌曲集《シェラザード》(1903) で既に評価を確立していた作曲家が若手登竜門の賞を年齢制限で逃したのは、審査の方が誤っていたという世論が強まり、パリ音楽院の院長は辞任に追い込まれてフォーレが後任の院長となり、オペラ専門学校から器楽中心のカリキュラムへの改革が実現する。さらにそれまで「進歩派代表」だったドビュッシーは1904年に銀行家バルダックの妻エンマと不倫関係になり、糟糠の妻リリーを捨てて駆け落ちした。拳銃自殺を図り一命を取り留めたリリーに世論は同情し、多くの友人を失ったドビュッシーは「進歩派代表」の座からも滑り落ちた。
  当時のパリで「進歩的」なピアノ独奏曲が演奏される機会は、KYO-EI エアーバルブ クランプイン 4個セット 品番:501LS 全長:40mm ツバ系:Φ14 エアバルブ 軽自動車 普通車で散発的に行われるビニェスのリサイタルだけだった。《ピアノのために》ー《水の戯れ》ー《版画》・《喜びの島》(1903-04) ー《鏡》(1904-05) ー《映像》第1集(1901-05)・第2集(1907) ー《夜のガスパール》(1908) と、同じ会場で同じ演奏家が交互に初演する状況では意識しない方が難しい。《ピアノのために》の3ヶ月後に《水の戯れ》で先を行かれたことは、《版画》でドビュッシーが飛躍する契機になった。ラヴェルはさらに明確に意識している。内省的な曲が多い《鏡》に〈海原の小舟〉のようなコンサートピースが混じっているのは、この曲集で《喜びの島》も参照したからだし、《映像》で繰り返された3曲の性格対比を《夜のガスパール》は完全に踏襲している。ドビュッシーが愛娘クロード=エンマに捧げた《子供の領分》(1906-08) は、平易な書法の範囲でもピアノ独奏曲の本質は保たれると示した野心作だが、ラヴェルはこの方向性にも敏感に反応し、子供でも弾ける水準の書法のみを用いた連弾組曲《マ・メール・ロワ》(1908-10) で応えた。
  《マ・メール・ロワ》は、ラヴェルが中心になって立ち上げた独立音楽協会の第1回演奏会で初演された。国民音楽協会はフランクが中心になって立ち上げた由緒ある団体だが、フランク没後はダンディら保守派が牛耳り、進歩派は冷遇されていた。ビニェスのリサイタルを後援していたのは、ピアノ独奏曲は当時の花形ジャンルではなく、費用もかからなかったからにすぎない。進歩派の管弦楽曲が取り上げられる機会は稀で、ドビュッシーの主要作品でも《牧神》だけだった。シェーンベルクが無調に向かい、ストラヴィンスキーが鮮烈にデビューした機を捉え、彼らも評議委員に名を連ねる進歩的な団体として出発した。《マ・メール・ロワ》も《高雅で感傷的なワルツ》(1911) も《クープランの墓》(1914-17) も、その後のラヴェルの主要ピアノ曲は専ら管弦楽編曲を前提に書かれており、ピアノでなければ表現し得ない領域を探求するドビュッシーとの距離は開いてゆくばかりだった。

  最後に、あらためてクロード・ドビュッシー(1862-1918) について。彼とラヴェルの音楽は大雑把に「印象主義」と括られてきた。この分類は、商業音楽教程の最終段階に相当する、映画音楽の管弦楽法で特に重要になるが、その実体はラヴェルの管弦楽法に他ならない。これに限らず、ドビュッシーの音楽で様式化・標準化が可能な部分は、軒並みラヴェルが形にしてきた。だが、そこから零れ落ちたものは決して少なくない。アイヴズの深い淵のような無調ポリフォニーも、バルトークの「夜の音楽」も、ストラヴィンスキーの批評的な新古典主義も、みなドビュッシーに由来する。超一流の作曲家たちが彼の音楽に向き合った時、各々全く違うものを持ち帰っているのは驚くべきことだ。
  しかもドビュッシーの影響は直下の世代に留まらない。《チェロソナタ》(1915) は彼が度々参照してきたミュージック・ホールの音楽の集大成だが、彼の想像力は遠く時代を飛び越えてビバップのアンサンブルを予見している。シュトックハウゼンの「モメンテ形式」の発想の源泉を、後期ドビュッシーの音楽の不連続性に見る向きは多い。調性的な旋律はホワイトノイズや正弦波発振音のような非和声的なテクスチュアの中で本領を発揮するという発見は90年代の「音響派」の核心だが、その起源を遡ると《前奏曲集》第2巻の〈霧〉に辿り着く。もちろんこれらは一例にすぎない。ドビュッシーの音楽は、その後の音楽の可能性をすべて含んだ混沌のスープだった。その可能性は、今日でもまだ汲み尽くされていないのかもしれない。




# by ooi_piano | 2022-10-03 01:13 | POC2022 | Comments(0)
Хироаки Ои Фортепианные концерты
Сны о России


松山庵(芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
チラシpdf 



【第3回】 2022年10月1日(土)15時開演(14時45分開演)

S.S.プロコフィエフ(1891-1953)

●《憑霊(悪魔的暗示) Op.4-4》(1908/12) 3分

●ピアノ協奏曲第2番ト短調第1楽章 Op.16-1 (1913/23) [独奏版] 10分

●スキタイ組曲「アラとロリー」 Op.20 より〈邪神チュジボーグと魔界の瘧鬼の踊り〉(1915/2016) [米沢典剛による独奏版、初演]  3分

●ピアノソナタ第3番イ短調 Op.28「古い手帳から」(1907/1917) 8分

■ピアノソナタ第6番イ長調 Op.82 「戦争ソナタ」(1940) 27分
 I. Allegro moderato - II. Allegretto - III. Tempo di valzer, lentissimo - IV. Vivace

  (休憩)

■ピアノソナタ第7番変ロ長調 Op.83「スターリングラード」(1942) 18分
 I. Allegro inquieto - II. Andante caloroso - III. Precipitato

■ピアノソナタ第8番変ロ長調 Op.84「戦争ソナタ」(1944) 30分
 I. Andante dolce - II. Andante sognando - III. Vivace


プロコフィエフの手



ドンバスの大地が生んだ野性と知性―――大塚健夫

  プロコフィエフは1891年、帝政ロシアのエカテリノスラフ州(現在、ウクライナ共和国ドネツク州)、ソンツォフカの生まれである。母は優秀なピアニストであった。州の中心都市ドネツクから40kmほどの豊かな自然に恵まれたこの地まで、ウクライナを代表する作曲家レーインホルド・フリエール(グリエール)(1875–1956)がキエフから、モスクワからはセルゲイ・タネーエフ(1856–1915) がやってきて、10歳に満たないセリョージャ(プロコフィエフ)に和声や管弦楽法を教えていたというのも母の影響によるところが大きい。いま、毎日のニュースでこの地名を耳にしないことはないドネツク、炭田で有名だったドンバス地方であるが、交通手段の発達もあり帝政末期の文化的レベルはペテルブルグやモスクワと比べても遜色なかったということであろう。20世紀に入ってドンバス地方が工業地帯として発展してゆくとロシアから多くの人がやってきて、中には炭鉱労働者として送り込まれてきた囚人たちもいた。彼らはリタイア後、あるいは娑婆に出た後も家族と共にこの地に定住するようになり、ドンバスにロシア系の住民が多いのはこういった歴史も背景にある。

  1904年、13歳でサンクト・ペテルブルグの音楽院に入学を許されたプロコフィエフはリムスキー=コルサコフを感激させ、グラズノフから叱咤激励を受けて早くもピアノと作曲で注目を浴びる。彼のペテルブルグ時代のあの機械的なリズムとメタリックな響きをもつ作品、例えばピアノ協奏曲第2番(1913)、『束の間の幻影(原題はмимолётность,“ 瞬時”』(1918)、ピアノソナタ第3番(1918)(1907年の「古いノート」の習作をリライト)は、ペテルブルグ(1914年以降はペトログラード)郊外のパヴロフスクにあった音楽駅広場で初演されている。初演はいずれも賛否が激しく分かれたと「自伝」で述べているが、ピクニック気分で聴きに来るようなこの場所であの当時としては十分に「尖がった」音楽を聴衆にぶちかましたのだから、その反応は想像に難くない。この野外音楽ステージはその約50年前、ウィーンから毎夏ヨハン・シュトラウス・ファミリー(会社組織)の楽団がやってきて、ロシアの富裕層を相手にワルツを演奏して荒稼ぎをしていた場所だ。またドストエフスキーの『白痴』の第三編で、ヒロイン、ナスターシャがオーケストラの演奏中に客席でひと悶着起こす舞台になっているのもパヴロフスクのこの野外ステージである。

  1910年代はロシアに資本主義という景色が短い期間ながら現れるとても興味深い時代だった。プロコフィエフは他の芸術家と同じく、欧州まで及んだこの大波をエンジョイし、また足をすくわれている。ロンドンにいたセルゲイ・ディアギレフとの出会いは、ストラヴィンスキーのような「大当たり」にはならなかった。バレエ音楽『アラーとロリー』はディアギレフに『春の祭典(浄められた春)』の二番煎じだと言われ取り上げてもらえず、管弦楽の『スキタイ組曲』と形を変えて世にでる。1916年のモスクワでの作曲者自身の指揮による初演では、ティンパニ奏者が演奏中に楽器の皮を破ってしまったとか、グラズノフが聴くに耐えないと途中で退場したとか、『ハルサイ』のパリ初演に劣らぬエピソードが残されている。なお、「スキタイ」というのは紀元前8~3世紀にかけて今のウクライナの大地に君臨した遊牧騎馬民族、遊牧国家。残忍で好戦的な集団であった一方、スキタイ金細工と言われる極めて精巧な手工芸品を残しており、これらはエルミタージュ美術館やトプカプ宮殿博物館のコレクションの中でも第一級の至宝として評価されている。1910年代のロシアでは、画家で考古学者だったニコライ・リョーリヒ(1874–1947)のグループが、19世紀末の音楽・美術に別れを告げ初期のスラヴ人、スキタイ人まで遡ってロシアの民族芸術を再発見しようという運動を組織した。プロコフィエフはいにしえの遊牧民族のダイナミックな野性さと精密極まる創造性に、自分のルーツを見出していたのではないだろうか。

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  プロコフィエフの才能と躓きの両方をしっかり見据えていたのが、ロシア出身でのちにボストン交響楽団のシェフとなるセルゲイ・クーセヴィツキーである。逆タマ結婚で資金力のあったクーセヴィツキーは『スキタイ組曲』の譜面に6千ルーブル前払いしたという。ロシア初演のあとクーセヴィツキーの指揮によってパリで披露されたのは1923年になってからだったけれども。その後交響曲第2番はクーセヴィツキーに献呈されているし、4番はクーセヴィツキーの依頼、つまりスポンサーシップを糧に書かれている。

  ロシア革命の混乱を逃れ、日本経由で米国に渡り、欧州も含めて「西側」で過ごした18年間は、プロコフィエフにとって何だったのだろうかと改めて考える。結局彼はアメリカ資本主義全盛時代における金儲け一徹のショウ・ビジネス、また興行師ディアギレフが展開したモダンなショウ・ビジネスに相容れなかったということだろう。自伝の内容を全て信じてはいけないのかもしれないが、「ペトログラードの音楽生活の方が外国(ディアギレフ)より魅力的」という彼の言葉がそれを物語っている。ミシェル=ロスティスラフ・ホフマン (1915–1975) というペトログラード出身で1923年にパリに亡命しプロコフィエフと親交のあった音楽学者が書いている著書(『プロコフィエフ』 1962年、清水正和訳)の中に、あるフランス人の観察として、プロコフィエフがパリではよくマスクを付けていたこと、「彼は自分が気に入らない外の世界とのあいだには、越えがたい柵を設けていたようである」という指摘がある。ショウ・ビジネスの要素を吸収した上で新古典主義、さらには独自の様式に昇華していったストラヴィンスキー、移民後は殆ど作曲を行わずショウ・ビジネスをあくまで生活手段として割り切りピアニストとして米国で生涯を終えたラフマニノフ、この二人に比べるとプロコフィエフにとってはヨーロッパもアメリカも永住の場所とはならなかった。米国でプロコフィエフと交流のあったミンスク出身の作曲家ウラヂーミル・ドゥケーリスキー(1903-1969)(米国ではVernon Dukeとして知られる) は、ジャズのヒット・ナンバー 『カラビナツール マルチキーホルダー マルチツール カラビナ型 ナイフ ドライバー 栓抜き 片手開閉 便利 釣り用品 登山 キャンプ工具 アウトドア 防災 od389』などを書いてショウ・ビジネスの世界で成功した移民だった 彼は1930年代、ソ連に戻ったプロコフィエフから熱心に帰国を勧められたが、熟慮の末米国に残った。一方でプロコフィエフに言われた通りクラシックの作曲も続け、その時はロシア語の名を記していたという。

  1918年、革命直後のペトログラードで、革命政府の初代教育人民委員(文相)だったアナトーリー・ルナチャルスキー(1875-1933) の了解を得て国外に出ている。ルナチャルスキーも現ウクライナ領のポルタワの出身だが、その彼に「仁義をきって」みたいな、佳き時代の人間関係があったのかもしれない。そして「スキタイ組曲、古典交響曲、ピアノ協奏曲第一番の譜面のみを鞄にいれて」(自伝)1903年に全通したシベリア鉄道でウラヂオストクに向かう。

  当時のウラヂオに筆者は想いを馳せる。明治末期から日本人の多くがフロンティアスピリット(風俗業等も含めて)でこの地に渡った。日露戦争で一旦下地になるがその後は増え続け、1917年には約3700名が「浦潮斯徳」に居住していたという。1991年のソ連崩壊後、それまで閉鎖軍事都市だったウラヂオでのビジネスが復活しても、2020年でウラヂオの在留邦人はせいぜい100名弱だった(その後はコロナによる引き揚げで激減)ことを考えると当時の日本人コロニーの勢いがわかる。1912年にはロシア閣僚会議でオデッサのドイツ人学校と、浦潮の「日本尋常高等小学校」がロシア国内の外国人学校として認可されている。プロコフィエフが浦潮から定期船で敦賀に渡ったのが1918年の6月、この時点でまだ革命軍はロシア極東に達していない。反革命軍を支持し、あわよくば領土を拡げるために日本が「シベリア出兵」を開始したのはこの年の8月である。プロコフィエフの日本滞在日記によれば、浦潮での日本行きヴィザの発給等に際し、かなり不愉快な思いをしたらしい。

  プロコフィエフがほぼ二カ月滞在した大正7年の日本にも想像を掻き立てられる。
  東京の帝国劇場で二回、横浜のグランドホテルで一回、ソロ・リサイタルを行った。帝劇でのプログラムには、『世界的作曲家洋琴家 セルギー・プロコフィエフ氏 ピアノ演奏會』と「大」が三回入っている。しかしこれが当時の日本の文化的後進性を表しているかと言えば必ずしもそうではない。ソナタ 1,2,3番とともに弾かれた『四つの小品』op.4 の終曲には、今日定着している『悪魔的暗示』という実に曲にふさわしい邦訳が既に使われている。想像するに、滞在中の作曲家と親交をもった大田黒元雄、あるいは徳川頼貞(紀州徳川家第十六代、ケンブリッジ大留学時に小泉信三と同宿)といった音楽学者たちは既に若きプロコフィエフの曲に通じていたのだろう。大田黒は1915年の著書で「シェーンベルグが現時点での終着点」という鋭い指摘を既にしている人でもあった。『悪魔的暗示』のロシア語の原題は Наваждение であり、おそらく仏訳 Suggestion diabolique からの重訳ではないかと思う。 現代においてНаваждениеという言葉の一般の意味は必ずしも悪魔や邪悪とは結びついておらず、「幻影」あるいは「見えないものが見えてしまう精神状態」であり、たとえばシンデレラの夜12時に鐘が鳴るまでは一種のНаваждениеなのだと知合いのロシア人が説明してくれた。ひとつよくわからないのは、プロコフィエフの滞在日記では寂しい自分の財布の中身を心配する記述がよく出てくるけれど、一方で箱根に行ったり、軽井沢に遊んだり、これまた横浜の娼館に出かけたり、外国人として不自由のないふた月を送っている点だ。麻布の自邸に「南葵(なんき)楽堂」というホールも建てていたという前述の徳川公爵から援助が出ていたのかもしれないが、作曲家はこのあたりのことをあえて語っていない。

  プロコフィエフがソヴィエト連邦となったロシアに完全帰国し市民権を得たのは1936年のことだが、1927年に一時帰国してコンサートで成功を収めている。前述のホフマンによれば1925年頃からソ連に帰ろうという決意はあったという。米欧のロシア音楽学者であるリチャード・タラスキン(今年7月1日、77歳で没)やフランシス・マースやらは、帰国の最大の理由として、プロコフィエフが西側の最新のモダニズムについて行かなくなったことを指摘しており、たしかにその後没するまでの彼の作風を見ているとこの指摘は正しいのかもしれないが、果たしてそうだったのだろうか。共産主義者という枠組みとは別の次元でもともとショウ・ビジネスを嫌い、より自然なかたちで自分の中の野性と知性を作品にして見せたかったプロコフィエフにとって、1920年代のソ連、少なくとも芸術の分野においてもスターリン旋風が荒れ狂うようになる以前のソ連は、彼にとって理想的な環境だったのかもしれない。仁義を切られてプロコフィエフを国外に送り出したルナチャルスキーは1929年までは教育人民委員(文相)の要職にあり「彼のあらゆる潜在能力を発揮させるために、プロコフィエフは我々の下に戻らなくてはならない」とまで言っている。

  プロコフィエフの正式帰国以前の1932~33年、彼の故郷ウクライナではスターリンの過激な農業政策が農村での食糧飢饉「ホロドモール」をもたらし、四百万人が餓死した。帰国後のプロコフィエフはスターリン政権下における「プロパガンダ」音楽も書いているが、これはショスタコーヴィチも同じであり、生きる、いや生き残るために致し方ないことであったはずだ。そのような環境の中で、バレエ音楽としての不朽の名作『ロメオとジュリエット』、そして「戦争ソナタ」といわれるピアノソナタの三部作といった傑作が生み出されてゆく。これらはまさに野性と知性のベスト・ミックスと呼ぶに値する作品であろう。
  プロコフィエフの音楽は最後の作品に至るまで調性をもった構成であったが、独自の透明な転調感が随所に聴かれる。ソ連時代、ベルコフという音楽学者が『現代和声の研究』(1962年)にこんなことを書いている。・・・・プロコフィエフはよくシューベルトの音楽における調関係について話した。彼はシューベルトが好んで工夫した「爆発的」な調性の脱線のことを考えていた。(ジェームス・バクスト『ロシア・ソビエト音楽史』 1966年、森田稔訳)。

  スターリン体制による作曲家と家族への直接の悲劇は戦後の1948年に起きた。プロコフィエフは1923年、ドイツでリナ(カロリーヌ)と結婚し、二人の息子をもうけモスクワに移住してきた。リナは父がカタロニア出身のスペイン人、母がウクライナ出身で、歌手であった両親の血を受け継ぎ音楽性豊かな女性だったようだ。ソ連に戻って2年後、プロコフィエフは24歳年下の翻訳家であり詩人でもあったミラ・メンデルソンと不倫の恋に落ち、リナとは別居生活となっていた。リナは欧米での長い暮らしもあって自由で社交的な女性でもあり、ソ連の市民が外国人と接するだけで逮捕されていた時代、英国大使館等に頻繁に出入りしていたようである。ある夜、小包を郵便局に受取りにきてほしいという電話がリナにあり、出かけていったリナは拉致され、一方的な裁判で北辺の地、コミでの8年間の矯正労働の刑に処せられた。1956年に刑期を終えて出所するが、1953年3月、スターリンが死んだ同じ日に病気で永眠したプロコフィエフには知るすべもなかった。リナは1974年にソ連を出てフランスに移り住むが、1991年に英国で91歳で没するまでソ連での自身に起きた不幸な出来事を語ることは殆どなかったという。一方のミラはモスクワに残り1968年に53歳で没、プロコフィエフが署名した二人の遺言にもとづき、ノヴォデーヴィチ寺院の墓に夫と一緒に葬られた。戦争ソナタ三部作の最後の作品、抒情性に富んだソナタ8番はミラに捧げられている。

  ところで1918年の日本経由米国往きの渡航費用についてその後、先妻リナの波乱万丈の生涯をまとめた Simon Morrison “The Love and Wars of Lina Prokofiev” (2013)を読んでいたら、米国の産業人サイラス・マコーミック・ジュニア(1859-1936)の援助についての短い記載があり、さらに調べたら2021年のシカゴ交響楽団のプログラムにこのことについて書かれている記事を見つけた。
  ロシアの10月革命の直前、米国の国務長官経験者、エリフ・ルートが率いる実業界の代表団がウラヂオストクからシベリアを縦断してペトログラードに入り、帝政に代わる「民主主義の定着」を当時期待されていたケレンスキーの新政府首脳と面談した。このメンバーの中に世界初の機械式刈取機を発明し「現代農業の父」と言われたサイラス・マコーミック(1809-1884) のジュニアがいた。彼は父の「マコーミック・ハーヴェスター社」をさらに拡大し、1902年には「インターナショナル・ハーヴェスター社(以下IH社)」と改名、その後20世紀を代表する総合農機メーカーとして名を馳せる。19世紀後半にはロシアにも輸出され、訪露の時点ではモスクワ郊外で現地生産の企画もあったようだがその後の革命で実現には至らなかった。
  この時ペトログラードにいたプロコフィエフは27歳、子供の頃に父が管理していたドンバスの広大な農地で動いていた「マコーミック」、馬に牽かせて刈取の生産性を向上させたゴツい仕掛けのブランド名は脳裏に焼き付いていたのだろう。どういう出逢いだったのかはわからないけれども、プロコフィエフは滞在中のマコーミック・ジュニアのところに乗り込んで行ったのではないだろうか。若き作曲家は『スキタイ組曲』の未公刊のスコアを見せ、アメリカ行きの援助を依頼する。IH社はシカゴ交響楽団を支えるスポンサー会社の一つであり、ジュニアはその譜面を音楽監督のフレデリック・ストック(1872–1942)に送った。ストックはプロコフィエフの疑うことのない才能に太鼓判を押してきたという。
  かくして青年プロコフィエフの渡航資金は得られた。しかし、当人は最初「南米に行くつもりだった」と自伝にも書いており、スポンサー側がどういうコミットメントをしたのかは定かではない点もまだある。
  前述のサイモン・モリソンは1964年ロンドン生まれ、タラスキン亡きあと期待される広い視野に立ったロシア音楽のスペシャリストの一人である。既にプロコフィエフに関する複数の著作があり、2011~15年までプロコフィエフ財団の会長も務めた。その後舞台芸術についても健筆をふるい、『ボリショイ秘史』(2016)は現代のスキャンダルも含めて興味深い内容の本。翻訳もこなれていて読み易い。




[cf.] 「プロコフィエフ日本滞在記」についてのブログ紹介記事(2005年7月11日)





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〈公演予告〉

【第4回】 2023年1月7日(土)15時開演(14時45分開演)
松山庵(兵庫県芦屋市)
■D.D.ショスタコーヴィチ(1906-1975): 24の前奏曲とフーガ Op.87 (1951)
■S.I.タネーエフ(1856-1915): 前奏曲とフーガ 嬰ト短調 Op.29 (1910)
■M.ヴァインベルク(1919-1996): ピアノソナタ第6番 Op.73 (1960)
[使用エディション:ショスタコーヴィチ新全集版(2015)]

【番外編】 2023年3月17日(金)19時開演(18時半開場)〈ロシアン・アヴァンギャルド類聚〉
松涛サロン(東京都渋谷区)
■N.A.ロスラヴェツ(1881-1941) : 3つの練習曲(1914)/ソナタ第2番(1916)
■A.V.スタンチンスキー(1888-1914) : ソナタ第2番(1912)
■S.Y.フェインベルク(1890-1962) : ソナタ第3番 Op.3 (1917)
■N.B.オブーホフ(1892-1954) : 2つの喚起(1916)
■A.-V.ルリエー(1892-1966) : 2つの詩曲Op.8 (1912)/統合 Op.16 (1914)/架空のフォルム(1915)
■B.M.リャトシンスキー(1895-1968) : ピアノソナタ第1番 Op.13 (1924)
■A.V.モソロフ(1900-1973) : 2つの夜想曲 Op.15 (1926)/交響的エピソード「鉄工場」 Op.19 (1927/2021)[米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演]
●ジョナサン・パウエル(1969- ):委嘱新作初演(2023)



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<cf.>










# by ooi_piano | 2022-09-20 18:59 | Сны о России 2022 | Comments(0)
(※)【予約終了】満席となりました

Хироаки Ои Фортепианные концерты
Сны о России

松山庵(芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
チラシpdf 



【第2回公演】 2022年8月7日(日)15時開演(14時45分開場)

S.V.ラフマニノフ(1873-1943)

●前奏曲ヘ長調 Op.2 (1891) 3分

24の前奏曲集 Opp.3-2 / 23 / 32 (1892-1910) 70分
  I. Largo /Agitato 嬰ハ短調 - II. Largo 嬰ヘ短調 - III. Maestoso 変ロ長調 - IV. Tempo di minuetto ニ短調 - V.Andante cantabile ニ長調 - VI. Alla marcia ト短調 - VII. Andante 変ホ長調 - VIII. Allegro ハ短調 - IX. Allegro vivace 変イ長調 - X. Presto 変ホ短調 - XI. Largo 変ト長調 - XII. Allegro vivace ハ長調 - XIII. Allegretto 変ロ短調 - XIV. Allegro vivace ホ長調 - XV. Allegro con brio ホ短調 - XVI. Moderato ト長調 - XVII. Allegro appassionato ヘ短調 - XVIII. Moderato ヘ長調 - XIX. Vivo イ短調 - XX. Allegro moderato イ長調 - XXi. Lento ロ短調 - XXII. Allegretto ロ長調 - XXIII. Allegro 嬰ト短調 - XXIV. Grave 変ニ長調

(休憩)

山口雅敏(1976- ):《エピタフィア Эпитафия》(2022、委嘱初演) 7分

9つの練習曲集《音の絵(第1輯) Op.33》(1911) 24分
  I. Allegro non troppo ヘ短調 - II. Allegro ハ長調 - III. Grave ハ短調 - IV. Allegro イ短調〈赤頭巾と狼(初版)〉 - V. Moderato ニ短調〈カラータイマー〉 - VI. Non Allegro / Presto 変ホ短調 - VII. Allegro con fuoco 変ホ長調〈市場の情景〉- VIII. Moderato ト短調 - IX. Grave 嬰ハ短調

●前奏曲ニ短調(遺作) (1917) 2分

9つの練習曲集《音の絵(第2輯) Op.39》(1917) 38分
  I. Allegro agitato ハ短調 - II. Lento assai イ短調〈海とかもめ〉- III. Allegro molto 嬰へ短調 - IV. Allegro assai ロ短調 - V. Appassionato 変ホ短調 - VI. Allegro イ短調〈赤頭巾と狼(改訂版)〉- VII.Lento lugubre ハ短調〈葬送行進曲〉- VIII. Allegro moderato ニ短調 - IX. Allegro moderato, Tempo di marcia ニ長調〈東洋風行進曲〉

[使用エディション:ラフマニノフ新全集版(2017)]




山口雅敏:《エピタフィア Эпитафия》(2022、委嘱初演)
  数年前に訪れたモスクワ・ノヴォデヴィチ墓地で、念願だった音楽家たちの墓参りを行った。彫刻が施された美術作品のような墓で、目が釘付けになったのがエピタフィア(墓碑銘)だった。ドミトリー・ショスタコーヴィチの墓には、自身の名前を4つの音名にした「D-Es-C-H」の音符が刻まれており、これをモチーフとして用いた様々な作品が響いてくるようであった。アルフレート・シュニトケの墓には、フェルマータの付いた全休符にフォルテッシモ(fff)が刻まれていた。指揮者のロジェストヴェンスキーによれば、この「叫ぶ静寂」こそまさにシュニトケの音楽であるとの事だった。さらにゲンリッヒ・ネイガウスの墓には、ショパン《ピアノソナタ第2番》の第3楽章「葬送行進曲」の旋律が刻まれていたことも印象深い。音楽家たちの個性を象徴したこれらのエピタフィアは、墓を訪れる人々に想いを呼び起こさせてくれる。
  では、ニューヨーク郊外ケンシコ墓地にあるラフマニノフの墓はどうであろうか。ロシア正教の十字架(八端十字)に名前と生没年月日が刻まれているだけで、エピタフィアは目にすることはできない。
 ラフマニノフのエピタフィアに相応しい言葉や旋律、彼の音楽を象徴するものを考えてみた時、真っ先に思い浮かんだのは「鐘」の響きだった。彼は幼い頃によく聞いたノヴゴロドにある聖堂の鐘の音に特別な郷愁を感じ、作品の多くに「鐘」の音を連想させるモチーフを用いた。「ディエス・イレ(怒りの日)」のモチーフもラフマニノフの象徴と言える。《交響曲第1番 Op.13》《同第2番 Op.27》《ピアノソナタ第1番 Op.28》《交響詩「死の島」 Op.29》《合唱交響曲「鐘」 Op.35》《ヴォカリーズ Op.34-14》《音の絵 Op.39》などで、このモチーフが随所で引用されているが、なぜ死者のために歌われるグレゴリオ聖歌にこれほどにまで拘ったのだろうか。また、運命を暗示するような半音階も、ラフマニノフの作品を性格づける重要な特徴の1つに挙げられるであろう。そして、ピアニストとしてもラフマニノフは偉大な存在であり、彼が大切にしつづけ名録音を遺したショパン《ピアノソナタ第2番》も、エピタフィアとして刻みたい作品である。ラフマニノフが生涯最後となるコンサートのプログラムに選んだのもこの傑作であった。
  私の見解も含め、ラフマニノフ独自の創作スタイルや、彼の音楽に対する憧れを音で綴ってみた。また、ラフマニノフ作品の素晴らしい解釈者であった、あるピアニストへの追憶も込めている。(山口雅敏)


山口雅敏 Masatoshi Yamaguchi, composer
  兵庫県立西宮高校音楽科を経て、東京音楽大学卒業、同大学研究生修了。フランス国立ヴィルダブレイ音楽院の最高過程を金賞を得て卒業、また同大学院を最優秀で修了。エコール・ノルマル音楽院や、ベルギー在住のピアニスト、アラン・ヴァイス氏のもとでも研鑚を積む。フランスでの第6回メドックアキテーヌ・ピアノコンクール第3位。日本音楽指導者協会第9回ピアノコンクール全国大会第1位最優秀賞。東京と大阪でソロリサイタルを開催し2018年には、ウィーンのエロイカ・ザールにてWienerKlassikQuintettと共演しモーツァルト「ピアノ協奏曲第23番k.488」を演奏した。音楽誌「ムジカノーバ(音楽之友社)」や新聞への記事、書評の執筆を行う。論文も多数刊行されている。また、ピアノ連弾編曲が楽譜集「PIANO STYLEプレミアムセレクション」(リットーミュージック)に収録され、付属CDの演奏を創刊号より担当している。伊賀あゆみとのピアノデュオでも活動し、超絶技巧を駆使した演奏と、複雑な手の交差、アクロバットな体の動きを用いた見た目にも楽しい連弾作品や、世界(日本)初演となる珍しい作品の発掘、山口の採譜によるV.ホロヴィッツの編曲を華麗にリメイクした作品などのオリジナル編曲を中心に演奏し、「進化系デュオ」と評される。これまでにグレインジャー音楽祭、ラ・フォール・ジュルネ・オ・ジャポン・エリアコンサート、サントリー・ブルーローズ・ホール、紀尾井ホールでのスルタノフ記念コンサートなどに出演し、日本各地でコンサートを行うほか、文化庁の派遣によるピティナ学校クラスコンサートも行っている。また「4Hands EVOLUTION 進化系ピアノ連弾 」(VIRTUS CLASSICS)、「Homage to HOROWITZ on 4 Hands ホロヴィッツへのオマージュ」(T&K Entertainment/レコード芸術誌準特選盤)、「ショスタコーヴィチ交響曲第11番 1905年連弾版<世界初録音>」(VIRTUS CLASSICS/レコード芸術誌特選盤)の3枚のCDをリリース。モスクワのスクリャービン記念博物館でのコンサートや、クラクフでの音楽祭(SfogatoFestival)にも出演する。現在、神戸女子大学、大阪総合保育大学、兵庫大学非常勤講師。



ラフマニノフを捉え直す―――野々村 禎彦

  セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943) という作曲家=ピアニストを音楽史に位置付ける際に最初に参照点になるのは、モスクワ音楽院同期のライバルだった作曲家=ピアニスト、アレクサンドル・スクリャービン(1872-1915) である。ラフマニノフはモスクワ音楽院修了時にピアノ・作曲両部門の金賞(=大金賞)を得たが、スクリャービンはピアノ部門の金賞のみに留まった。ラフマニノフはロシア革命を逃れて米国に亡命し、主にピアニストとして活動を続けて十分な数の録音を残した。スクリャービンは生来虚弱で、上唇の潰瘍から感染した敗血症のため早逝し、ピアノ演奏音源は残されていない。

  伝記的事実の表面だけ眺めると、ラフマニノフの方が幸福な人生だったように見えるが、必ずしもそうではない。ラフマニノフとスクリャービンは共に多くの取り巻きに囲まれ、当人同士の関係は良好でも、取り巻き同士は激しく対立していた。ラフマニノフの取り巻きにはヴィルトゥオーゾとして熱狂する女性が多かった。スクリャービンの取り巻きには神秘主義まで含めて崇拝する文字通りの「信者」が多かったが、無調化以降の作風を高く評価しつつも問題点も指摘し、取り巻きのスノビズムには批判的だった音楽評論家サバネーエフのような真の理解者もいた。スクリャービンの死を受けて、ラフマニノフは遺族のために連続演奏会を企画したが、スクリャービンの取り巻きは彼の解釈を厳しく批判し、ショックを受けた彼は1年以上作曲ができなくなった(これを乗り越えてピアノ曲の最高傑作《音の絵第2集》(1916) を書き上げた)。米国亡命後はピアニストとしては成功したが、新古典主義全盛の音楽界の中で作曲家としての自信は衰えるばかりで、《鐘》(1913) や《徹夜祷》(1915) に匹敵する作品が書かれることはなかった。

  20世紀初頭における無調化は、新ウィーン楽派周辺のみならず、R.シュトラウスやシベリウスも巻き込んだ大きな潮流だった。その中でスクリャービンは、長3度・完全4度・増4度を堆積した「神秘和音」で「無調」のトーンを作り、持続音(ピアノ独奏曲ではアルペジオとトリルで代用)で時間を分節する、という単純だが明確な方法論を打ち出した。神秘和音の構成音は全音音階に極めて近く、その影響圏は「印象派風」の括りに埋もれがちだったが、「無調的な構成音と持続音による分節」まで拡大すれば、その影響圏は一挙に広がる。ロシア・アヴァンギャルドの作曲家の多くはこの意味ではスクリャービンの影響下にあり、シェルシもピアノ即興に基づく作品群で参照した。即興音楽における「無調」表現の現実的処方箋として、広義のスクリャービン流「無調」は広がっており、その影響は今日においてもまだ過去のものにはなっていない。

  他方ラフマニノフは、この潮流には全く与しなかった。米国亡命後に新古典主義に向かうこともなく、しかし同時代の潮流を批判するでもなく、「時代遅れ」という非難も甘んじて受け入れていた。死後の前衛の時代には扱いはさらに悪くなり、非専門家による一過性の人気だと切り捨てられた。この時代は、彼とスクリャービンの音楽を共に得意とするホロヴィッツのようなヴィルトゥオーゾが一世を風靡した時代でもあるわけだが、むしろ彼らの音楽がアクチュアリティを失い、差異が透明化された結果と見做せる。新ロマン主義の時代のラフマニノフ評価は、前衛の時代の批判をそのまま裏返した称賛に過ぎず、評価の枠組は変わらなかった。


  ここまで眺めてきたラフマニノフの評価軸には、抜け落ちているものがある。ピアニストとしてのラフマニノフである。彼の自己認識はあくまで作曲家であり、ピアノ演奏は生計を立てる手段に過ぎなかった(バルトークと同様)ので、そうなるのも無理はない。だが、SPやピアノロールに数多く残された彼の録音の復刻を一聴すれば、認識は一変するはずだ。彼は十度を楽に掴める大きな手と異常に柔軟な指関節を持ち、この身体的メリットを活かして楽曲の対位法構造を徹底的に抽出してモダニズムを体現した。この目的には伝統的な調性音楽の方が都合が良く、自作自演を前提にする限り、作曲家ラフマニノフは19世紀の語法を革新する必要は全くなかった。自作以外の主要レパートリーはショパンとベートーヴェンであり、ヴィルトゥオーゾ志向の作曲家=ピアニストにありがちな、表面的な技巧に淫するレパートリーへの嗜好は微塵もない。

  それならば、彼がなぜ自作に自信が持てなかったのかもわかる。彼の作曲上のライバルはスクリャービンなどではなく、クラシック鍵盤音楽史の最高峰をなす作曲家たちだったのである。そんな彼がJ.S.バッハをはじめとするバロック鍵盤音楽には手を出さなかったのは、ロマン派的な要素を求める嗜好も大きいのだろうが、新古典主義が「バッハに帰れ」をスローガンにしていたので忌避したという面もあるだろう。むしろ彼が手を付けなかったおかげで、この分野は20世紀後半に発展する余地があった。ヴェデルニコフやアファナシエフのような、対位法表現を表看板にしてJ.S.バッハを最重要レパートリーにするピアニストたちが、リスペクトするピアニストの筆頭にラフマニノフを挙げているのは必然である。

  スクリャービンのピアニズムの核心は精妙なペダル操作から生み出される音色表現だったと伝えられており、その信奉者たちはラフマニノフの演奏スタイルを「足はペダルに乗せているだけ」などと揶揄した。彼らがラフマニノフのスクリャービン解釈に批判的だったのもそのあたりが背景にある。だが、ラフマニノフのピアニズムの核心が対位法構造の表現ならば、ダンパーペダルの多用はそれを濁らせるだけである。彼が自らの演奏様式に自覚的だったとすれば、自作自演を前提に書かれたピアノ曲はその演奏様式も前提にしているはずだ。「対位法表現の器」として捉え直すことで、ラフマニノフの音楽に新たな扉が開かれるに違いない。「早すぎた代表作」〈前奏曲嬰ハ短調〉op.3-2の桎梏を、ショパンにならった全調性の24曲に溶け込ませて乗り越えた《24の前奏曲》(1892/1901-03/10) と、ロシア時代のピアノ曲の集大成《音の絵》(1911/16, op.33-4とop.39-6は本来は同一曲だが、今回取り上げるのは作曲年による創作様式の変化を織り込んだ補作版)。相手に不足はないはずだ。






# by ooi_piano | 2022-08-01 09:36 | Сны о России 2022 | Comments(0)

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